老人の主張6
                 
                 ななえせいじ
 
                      
 危険がいっぱいのこの世の中。君子危うきに近寄らずと言いますが、危険を回避するにはなるべく近寄らないことです。備えあれば憂いなしとも言います。物事は普段は順調に運んでいるものです。何気なく私たちは「神様のお陰」を口にしますが実は運が良かったにすぎません。 
 今話題の統一教会ってなに? 私は何も知りません。だから何も言いません。知らない事には鼻から関わらないと決めております。この世の中、交通事故にせよ、友達付き合いにせよ、知らない間に危険の方から近づいてきます。少しの心の隙を衝いてきます。これが人間関係に潜む危険のメカニズムであります。それは今社会に潜む罠なのです。コロナ禍以降は人との接触に濃淡があるとは思いますが危険が増したように思います。それは意図しない日常生活の営みの内にさえ起こりうる社会現象なのです。確かに高度経済時代よりも棲み難くなっております。国民が夢中で働いたあの時代はおしなべて国民は中流意識に浸り幸せでありました。失われた何十年間の内に石川啄木が詠んだ一握の砂さながらその時代に堕ちていく現世。そんなはずではなかったのにね。
 私は高度経済成長期の若いころ大阪の下町で生活したことがあります。会社を辞め集合住宅の小さな部屋に移りました。働く場所はいつでもあるといった安易な考えでした。その集合住宅は社会の掃きだめのようなところでした。工員風の人、夜の風俗店で働く女性もおりました。ある日、年が同じくらいの工員風の男が訪ねてきました。何の用事かと警戒しておりましたら「何か相談したいことがあればお手伝いいたしますが」と言う。落ちぶれて見えたのでしょうね。私は私でこの人はまじめな人と判断しました。「明日にも迎えに来ますから一緒に行きませんか」という。私はその人の顔を立てて誘われるがまま近くの集会場に行きました。そこには大勢の人が教室ふうに座っておりました。これまでに味わったことのない雰囲気に驚きました。
 私は「ここを出るからお薦めの会に入る気はない」と断りました。その人も困ったのか「皆の前で同じことを言ってほしい」というのです。つまりメンツが立つということのようです。
 その時、会場の人たちは「残念だ」と落胆し「惜しい人材だ」とも言いました。落ちこぼれと思っていた自分が人材だとみてくれた得体のしれないこの集団に不思議に恨みはありません。今に思えば何の勧誘であったか想像はつきますが私を誘ってくれたその青年は「信心がたりない」と同志に言葉を浴びせられしょげていたことです。
 宗教は信者の心を癒す活動であらねばならないでしょう。日本に宗教団体がいくつあるか存じませんがいま社会問題化している宗教はやはり何か問題があるようです。老人は知らぬが仏を通します。

 話変わって、「茶の湯活動は一種の宗教活動だ」という人がおりました。確かに「奉仕」という一面からすると一種の宗教活動に似た部分がありそうですが、それをわずらわしいと思う人は修行が足りない人ともいえそうです。茶の湯にはいくつかの流派はありますが流派間に流儀の違いはあっても隔てはありません。それに入退会は自由であります。この頃では外人も多数見かけます。
 確かに茶会では「禅語」が頻繁に登場しますし、会のはじまりと終わりには「言葉の昌和」があります。人的つながりだけの茶の湯の世界に宗教的な活動は何も感じません。宗教活動とみるのはすこしオーバーな気がいたします。

                    
         2022年9月9日  
生々文庫目次に戻る
最初のページに戻る