諷意茶譚5
            本物か偽物か、卞和(べんか)の故事に学ぶ

                                                   ななえせいじ
 
 茶会に登場する茶碗や茶杓の銘には読めないのがしばしばあります。11月の豊国神社月釜に登場した三島茶碗の銘は「卞和(べんか)」と言いました。私の茶会メモ帳によりますと平成26年にも登場しております。記憶から遠ざかっておりましたが席主の説明で思い出しました。卞和(べんか)の故事は次のようであります。自己流解釈ですので思い違いはおゆるしを・・。
 春秋時代前期の楚の話。卞和(べんか)という男がおりました。和氏(かし)とも言ったらしい。この男、玉(ぎょく)の原石を見つけ楚の国王に献上しました。ところがお抱えの鑑定職人が偽物と断定、王を騙した不届きな奴と罪に問い右足を切断します。王が死に弟の武王が即位いたしますと卞和(べんか)は再び献上いたしましたが偽物の断定は覆らず今度は左足切断の刑を受けます。武王が死にその子の文王が即位します。両足を失った卞和(べんか)は不幸な運命を嘆き悲しみ献上を諦めながらも玉石を磨いておりましたら見事な宝石になったといいます。その後の卞和(べんか)は取り立てられ幸せに過ごしたに違いありません。ここは読者の想像に任せますが、席主の話によりますとこの故事こそが「完璧」の語源なのだそうであります。

 さて現世、茶会は大衆化し大きな茶会には大勢の数寄者が集います。茶道具もいろいろ登場します。
 私も自前の茶道具で苦い経験があります。大枚を払って手にした茶碗がいざ使用する段になって偽物とばかりに決めつけられたことであります。その時、返す言葉もなくただ縮こまっておりました。今思い返しても悔しく記憶にあります。後日お店の人は「それはないよ」とあきれ顔でありました。私は結局その茶碗を手放しました。もしこれが茶の湯世界の日常茶飯事なら茶の湯人口は減少していくでありましょう。
 私が抱く結論は、自分が気に入ったものは安かろうと高かろうとその人にとって本物であるということにあります。特に教室の先生は生徒の道具にアドバイスするのはいいとしてもケチをつけたるのは如何でしょうか。先生は先生らしく言い方を工夫したら如何でしょうか。しこりを残すのみで生徒のためにならないということでもあります。時代錯誤というものです。褒めておだてていい気分にさせなきゃ生徒は集まりませんよ。
 ここで参考までに山本五十六の名言を掲げます。
  「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」
 「道具はあり合わせにて・・・」という家元の教えはコロナ後の茶の湯世界の最も大切な教えであります。とまあ思いますけどね。     
                         
               2021年11月30日
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