韓天寿との縁」
                          谷川雅夫

 2000年の21日、私は松阪駅に降り、まず、岡寺(継松寺)にお参りして、あわよくば韓天寿のものを見せてもらえないかとダメもとでお寺の方に頼んでみた。「年に1回、5月に虫干しをするので、その時に事前に日にちを確かめて来てください」と言われ、その場を立ち去ろうとすると、チラッと二曲屏風が見えた。堂々とした韓天寿の行書である。「これならどうぞ」とすすめられるままゆっくりと目に焼き付けた。当時私は故米田彌太郎氏の『近世日本書道史論考』を読み、江戸時代の書が身近なものになりはじめ、その中の「韓天寿とその刻石」で韓天寿の事を知り、松阪の人であり、法帖の版木がゆかりのあるこのお寺に蔵されていることも知った。名古屋の近くにこんなに由緒あるお寺があるのだから一度訪ねなければ、そして松阪には韓天寿の書や、それに関する池大雅等の書画もあるに違いないと漠然と思い、出掛けたのだった。「弘法大師」木額は池大雅の堂々たる大字で、「継松寺」木額の木庵の書とともに印象に残るものであり、それらを拝観した後、古書店や骨董店を捜そうと町歩きを始めた。しかし、松阪牛の店や風情あるところもなくはなかったが、書画が掛けてあるような
店は見つからず、その日の午後、もう帰ろうかと思いつつ掛軸が外から見えたお茶を売っている店に入った。「松阪は城下町の割には、骨董屋さんはあまりないですね」といったら、「うちによく見えるお客さんで、お好きな方がいらっしゃいますよ。たしかお店をやっているような・・・」と名刺をさがしはじめ、「あった!この方ですが、お店のようだから電話されても大丈夫じゃないですか」と親切に教えてくださった。さっそく電話してみると、「それなら近鉄に乗ってこいしろ(漕代)という駅で降りて下さい。そこへ迎えにいきますから」と言われ、無人駅のような漕代駅に着くと、奥様が車で迎えに来てくださっていた。店は絶対にありそうもない田んぼの中を車で
5分。着いたところはやはり店舗ではなくふつうの家で1階は倉庫状態。階段にも本が積まれ、2階に上がると、すでに先客がおられた。軸の山。しかし左の壁を見るとなんと韓天寿が掛かっている。それも先程岡寺で見た二曲屏風の雰囲気そのままのものだ。状態は今イチだが、さて値段はどれ程だろうか・・・と御主人の田中さんとあいさつをする前から期待に胸はふくらんだ。田中さんは電話での印象と同じく、良識のある方であった。もともと中学の理科の教師をされていたがやめ、この道に入って10年余り、地元の書画をコツコツ集めては売っておられる。「最初は雑貨屋をやっていたがうまくいかず、骨董も焼き物はまわりの人がやっていた。書はあまり売れないということもあって他にやっている人も少なく、この土地に物が残るという意味でも有意義だと思い始めたのです」とのこと。韓天寿だけでも何本か見せてもらったが、やはり最初に見たものに決め、その日の夜遅く名古屋に帰った。その後このお店には1年に1回位は訪ね、今に至っている。そして今この文を書くにあたり、田中さんに電話をしてみた。はじめて店の名前を伺ったところ、「めいわ」という。韓天寿をはじめ、伊勢の書画に興味のある方は訪ねてみられてはどうだろう。(TEL / 0596523767

 今回917日~21日まで読売書法会の創立二十五周年の中部記念企画展で「岡寺山継松寺の墨帖版木と集った文人作品展」を名古屋で展示するときき、さっそく会場に行ってみると、はたしてその二曲屏風が展示されており、以上に書いた当時のことが思い出されて懐かしかった。そして米田氏の文中に引用されていた貫名海屋の無倪宛書簡もオリジナルを見ることが出来た。その米田先生も今は故人となられ、時のたつ早さを感じさせられる。それから自分がたま
たま手に入れた法帖が韓天寿の「岡寺版集帖」であることもしっかりと確認できた。今年の読売書法展は各地域でそれぞれの特色を生かした企画が行われており、私にとって大変有難いものであった。更なる地域性の掘り起こし、活性化が期待される。それらのすべてに感謝しつつ、これからも韓天寿との縁を大切にしていきたいと思う。

                               於覚王山


                                         2008年9月24日
             (『金石書学』編集長 奈良教育大特任准教授)


生々文庫目次に戻る
トップページに戻る