「だまされ だまされ 骨董屋めぐり」
                                     鈍亀庵主婦

  

 我が家は近頃、骨董ブームである。
 かなり以前から私自身少しずつ骨董を集めてはいた。でも、それはかわいいものだった。骨董市があると、二万円だけをお財布に入れ、それ以上無駄遣いしないようにと出かける。GパンにTシャツ、小さなカバンを肩に掛け、化粧っ気なし、なるべくヨレヨレしたカッコウで行く。こういう時は、一人で行くのが一番。
会場に入ると端からきちんと見て廻る。もちろん私の好みでないお店もたくさんあるので、そこは通過。馴染みのお店はいつも決まった場所に出ているが、お店の人とあまり仲良くなるのも危険。
 主にお茶道具を見て廻るのだが、時に、なかなかの掘り出し物(私にとっては)もある。
銅蟲細工(どうちゅうざいく)の手の込んだ打ち出し模様の水薬缶があった。これは銅を何千回何万回も表面を叩いて形成し、そのうえに色々な模様までが打ち出してあり、昔、安芸の国(広島)の藩主がその仕事ぶりを見て「銅の蟲のようだ」と言ったのでその名がついたと言われている。
 もちろん、私が見つけたものはそんなに古いものではない。明治、大正あるいはもっと時代の下がったものかも知れないけれど、一万二千円とあった。おっ安いと思ったがそれは顔には出さず、他のものを見る。おもむろに薬缶のそばに行き、
「これは、何?」と聞く。
「これは、広島の銅蟲細工といってな・・・。」
と説明が続く。ふぅーんと気の無い返事をしながら他の物を手に取ったりする。暫くしてから言ってみる。
「ネェ、もうちょっと安くならない?」
「そんな・・・、初めは一万五千円で出しといたんだが、今日は最終日だで、一万二千円にしたんだが、これ以上、安くは出来ん。」
「最終日だもん、私、貰って行くから、もうちょっとまけてよ。」
「ウーン、じゃあ丁度(一万)。」
「今晩のお惣菜ぶん、もうちょっと・・・。」
「もう・・・・、負けたワ。九千!」
「ありがとぉ。」
ってな訳で、この水薬缶を九千円で手に入れた。
本当に得をしたのはどちらかは解らないが、もう、ルンルンで家に帰り、夫に如何に安く手に入ったかを得意満面で報告する。
 ほこりを被って黒ずんでいた薬缶を優しく洗う。丁寧に、丁寧に磨き上げてやると、二色に分けられた銅の色が輝いてきて、打ち出された花と蔓草の模様が、それは美しく浮き出てきた。
 今まで使っていた水薬缶は片隅に置かれ、今では専らこの水薬缶が主流となった。
 こんな具合に骨董市とあらば出かけて行って、安物を買ってきては、自慢して見せていたら、夫も行ってみようかなとういう事になった。
 その時点から様相が変わってきた。持参する金額がちょっと多くなった。私の服装もちょっとお洒落になった。行先も名古屋市内だけだったのが、小牧、岡崎、四日市、大垣とだんだん範囲が広がった。 
 ある日、陶器の町、多治見に行こうという事になった。朝早く家を出て幸兵衛窯等を見て周り、駅周辺の骨董屋を覗いて帰ろうという事になった。オリベストリートという町起こしの通りを見たけれど、あまり面白いものも無く、裏通りをブラッと行くと、古い民家の土間のところに少々物が置いてあり、「骨董」の看板が掛かっている。
 入りにくそうだけど、どうする?と言いながらもガラガラと引き戸を開けてみる。「いらっしゃい」と老婦人が顔を出す。土間にあるものだけを見ていると、畳の部屋の方にも上がれと言う。ちょっとまずいかなとも思ったが見るだけならと、二人して上がる。
 すると、老婦人は古い戸棚の奥から次々と茶碗の箱を取り出す。
「これは、桃山(時代)の織部。こちらも桃山(時代)の茶碗。なんともいえない、いい色しているでしょう。」等々、弁舌爽やかに桃山の陶器の説明が始まる。
「この茶碗はネ、東京の出版社の人が来てネ、写真を撮っていって雑誌に載ったんですよ。」
「これ、いくらですか?」と夫。あーぁ、買えそうに無い物の値段なんて聞かないでョと思っているのに、いいじゃないか聞くくらい、という顔をしている。
「この織部、三百五十万。こちらは三百万。これなんか時代が下がりますからお安くなりますに、百五十万。」
やめて!
 夫は、以前の仕事の関係上、多治見には知っている人もいる。そんな話まで始める。
「そうそう、その方のお宅にはこちらからもよく品物を納めさせて頂きました。」
などと調子がいい。
「主人(八五、六の人らしい)は、今、ちょっと出掛けておりますが、亡くなった(荒川)豊蔵さんとも親しくて、あちこち連れて行ってもらいました。ハイ。」
 とても買えるような物は無いから帰ろうョと、夫に目配せしていると、私が先程、土間の方で手に取っていた茶碗を持ってきて、
「お安くしときますに、」と言う。
 それは、いわゆる『呼継(よびつぎ)』といって欠けた茶碗で、欠けて無くなった部分に別の破片を持ってきて漆などで継ぎ足した物である。私が見ていたのは、黄瀬戸の欠けた部分に別に黄瀬戸の破片を金継ぎ(漆で継ぎ合わせ金粉を蒔く)したものであった。八万と書いてあった。横にある三百五十万の茶碗を見せられた後の八万は安く感じられる。
 でも・・・と迷っていると、
「六万円で。」
と言う。ウーン、それでは・・・と、何となくその『呼継』茶碗を買うハメになってしまった。
 何でこんな『呼継』なる欠けた茶碗に興味を持ったかといえば、あの遠い日の思い出が頭をよぎったからである。
 もう十七年も前になるのだが、長男の大学の卒業式に出席した翌日のことである。東京に出てくることは、滅多に無いし、都内のあちこちの美術館を観て帰ろうと思い朝早く宿を出た。
 初めに、永青文庫に向かった。ここは、目白の駅から程近く、細川家代々の歴史資料や美術館が保存されている所である。この建物は昭和初期に細川侯爵家の事務所として建設されたものだそうで今どきの美術館とは違って素朴な温かみのある建物であった。
 十時開館の三十分も前に着いてしまった。ぼんやりと待っていると、受付の窓が開き「どうぞ」と少し早めに入館させて下さった。ご好意に甘んじて早朝の美術館の中をたった一人で観賞させて頂いた。
 入ると先ず、細川ガラシャ夫人像の写真パネルが掛けてあった。優しげで儚げなお顔がじっと私だけを見ている。数々の展示物の中に細川三斎(ガラシャ夫人の夫)公の愛用秘蔵された茶碗があった。それが『呼継』だったのだ。
 ちょっと小ぶりの褐色の瀬戸茶碗がV字形に欠け、その欠けた部分に染付けの破片が漆で継ぎ合わせてあった。もう黒っぽくなった箱の蓋には、か細い筆字で「古せとのちゃわん」と書いてあった。この墨あとは、あの非業の最期を遂げたガラシャ夫人の筆に違いないと思うと何か胸がキュンとなったのを思い出す。(これを書くに当たって調べてみたら「箱書の筆者は未詳」と書いてあった。私はずっとガラシャ夫人が書いたものと思い続けていた。)
 結局、開館時間が過ぎても入場者が無かったので、私は「永青文庫」を一人占めしたのだった。
 あの日の感傷が私の眼を狂わした。
多治見から『呼継』茶碗を胸に抱いて帰って来たが、どうしてもしっくり来ない。早速、友人にその茶碗で一服差し上げ、
「この茶碗、いくらだったと思う?」
「三千円くらいかな。」
・・・うーーん、やっぱりそうか。
大切にしていた茶碗が欠けたので繕うのと、始めから欠けた茶碗を買ってくるのでは大きな違いだ。
だましだまされ・・・と行きたい所だが、私は他人に物を売らないのでだまされっ放しである。
 しかし、損失は補てんしなければならない。
 今日もせっせと自分の服や、孫の服を作る。もちろん、新しい生地など買っては来ない。残り布を呼継ならぬ、ミシンで継ぎ合わせながら・・・。


                    

                                 (平成20年7月1日)
                                          主婦


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