『五十而知天命』

谷 川 雅 夫  



「比丘道匠造像記」

 10代を名古屋、20代を東京、30代を北京、40代は静岡で主に生活し、書道を極めたいという目標はどの場面でどんな仕事をする上にも曇りなく存在した。この5年間は30代の経験を生かそうと『金石書学』誌を清原さんと立ち上げ、藝文書院の“無私の精神”によって3号雑誌に終わらず11号に至っている。しかし、自分の中国体験は80年代から90年半ばにおいてであり、この頃はやや風化しつつある。またここ数年は台湾により多く足を運んだ。中国大陸にも日本にも欠けている魅力がそこにはあった。

 50代は40代の経験を活かす時で、北京から日本に帰り台湾を知り幅が出たところを、表現できればと思うが、このまま行けば小さくまとまってしまうという危惧を強く感じる。もう一度北京で中国語や美術史を勉強したように中国の詩歌や哲学を一から学びたい。できればこの10年の間に。

 大学生に中国書道史の講義をするようになって実感した事がある。その時代を代表する書道家は必ずといってよいほどに政治的には屈折があり、かつ長寿を全うし、晩年になればなるほど魅力的な作品を創り上げていく。王羲之、顔真卿、蘇東坡・・・。そのような大家を挙げなくとも、身近なところでそのような生き方をしている方に出会う事がある。
 『金石書学』誌の中で「中国の現代書家」に話を伺って記事にしているが、蘇州の瓦翁さんは90歳をゆうに越えているのに、中央美術学院で西洋美術史、西洋美学を学びたいといい、台湾の張光賓さんも90歳を過ぎてから、お会いする度に少しずつ画風が変わっている。この旺盛な好奇心と謙虚な姿勢こそ私の手本とするところだ。

 魅力的な人はまだ多い。台湾での後半生を余儀なくされた台静農教授、名古屋で隠者のような一生を送った伊藤観魚翁、皆それぞれの長寿を全うされた。明代の王寵の如く早逝を惜しまれているのは篆刻に賭けた奥谷九林氏、また50年代の絵画と書の交流の架け橋となり、その一致に表現を賭けようとした長谷川三郎。これらの人々の死を前にすると、もしも長寿であったらと思わずにはいられない。

 50代はと振り返った時に、惑わず天命を見据えて働けたと胸を張っていえるものにできるかどうか、自らの生き方が問われる10年となる。

2007年4月5日
(『金石書学』誌編集長 奈良教育大特任准教授)




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