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『つかめなかったもの』                                                             
                                      服部清人

 「いつもあと一歩というところでした」
高校の卒業式が終わったあと、梶山君は体育準備室にいた陸上部の顧問の石河先生のところにやって来て、こんな挨拶をしました。
「僕は先生のおかげで三年間長距離走の学校代表選手を通すことができました。一年の時は48人中13位。初出場としてはまあまあだと、先生はおっしゃってくださいましたが、大会の記録報告紙に載ったのは12位まででした。二年の時は頑張って7位になったのですが、入賞は6位まででした。今度こそはと思って三年の時は僕なりに努力したのですが、4位どまりで表彰台には上がれませんでした。結局大した記録も残せなっかのですが、悔しいのは三回ともすぐ手の届くところに前を行くランナーが走っていたことです。もう一歩のところで僕はあきらめてしまいました。今思えば前を走っていた選手の後姿は僕自身だったような気がするんです。僕は自分に勝てなかったんだと」
梶山君はひょうきんな男で、どんなグループの中にあっても、ムードメーカー的な役割を果たすようなタイプでしたから、神妙な面持ちでそう言われた石河先生はちょっと戸惑ってしまいました。
「梶山、こんな話を知ってるか?かの喜劇王チャップリンが最晩年に“あなたの作った映画で生涯一番の自信作はなんですか?”とインタビューされた時、即座に“Next one”と答えたっていうんだ」
これまでなら、梶山君はここで必ず、相手の言うことを上手く逆手にとって、それを茶化してくるのが常でしたが、
「先生がおっしゃっていることの意味はわかるような気がします。あきらめずに前を見て、これからも努力しろということですよね」
「まあ、そうだけど・・・。えらくものわかりがよくなったもんだな。少し大人になったということかな。それともさすがの梶山も卒業ということで、感傷的になったか?」
石河先生はいつものやりとりに戻して、最後はさらりと送り出してやりたかったので、ちょっとふざけて梶山君の肩を叩いて言いました。すると、梶山君はうなだれて、眼鏡をはずし、堰を切ったように泣き始めました。
「梶山・・・」
石河先生は自分のとった態度を後悔しました。
「お前はこれからなんでもできるんだ。とてつもなく大きな未来がある。その気持ちを忘れないようにがんばれ」
やっと、それだけを言って、取り繕ったのですが、梶山君は泣き止みません。そういえば彼が眼鏡をはずした素顔を見るのは初めてのように思えました。長距離走で負けた時にも見せたことのない姿でした。ずっとこらえていたものが、一気にほとばしり出たというように見えました。
「先生、僕はいつも自分をごまかして来たんです・・・。自分に才能というものが何ひとつ備わっていないことはとうに気付いていました・・・。勉強は出来ないし、運動の能力もほどほどで、女の子にもてたこともない・・・。頑張っても頑張っても、どうしても追いつけないんです・・・。才能のない人間は努力するしかないと思って、なんでも一生懸命やってきたつもりでした・・・。でも仲間の中で自分を認めてもらおうと思ったら、ピエロのように振舞うしか方法がなっかたんです・・・。それにも疲れました・・・。ずいぶんと煮詰まって化けの皮が剥がれそうになってきてましたし・・・。卒業をきっかけに新しい自分を見つけたいと思います」」
梶山君はそれだけを途切れ途切れに吐き出すと、やっと落ち着いたようで、すこし晴れやかな顔つきになり、石河先生の方を見ました。その真摯な顔つきにつられて、
「多かれ少なかれ皆なお前と同じように感じたり、時には自惚れたりして、何とか生きてるんだ。もちろん俺もそうだ」
と、言いながら石河先生も眼鏡をはずし、すこしもらい泣きした涙をハンカチで拭きながら、脳裏に行き交う鳥の影を感じておりました。思い出すことも、後悔することも、そして頑なに守っていることも、石河先生の方がずっと多かったのです。しかし、梶山君はそのことには気付きませんでした。

 「これからは友達として一杯飲もう」
そう言いながら、二人は眼鏡を掛けなおし、元の顔つきに戻りました。

                                           了

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