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『あ か し』
服部清人
湖岸に吹く風が火照った頬に心地よかった。随分と陽が長くなって午後の六時だというのにあたりはちょうど陽が傾きかけたところだった。朝から降り続いていた雨も五時近くには上がって、雲の切れ間から陽光が行く筋も湖面に差していた。車の窓からその景色を眺めていた陽子が、
「車を止めて、ちょっと下りてみない」
と、言い出したので、裕行は適当な場所を選んで、国道を外れ、堤防の側らに車を止めた。降り続いた雨のせいで砂浜はしっとりと湿っており、振り返ると二人の
歩いた跡がはっきりと残っていた。時折、鳥の声がするくらいで、人の気配はなく周りの木々が静かに揺れているだけだった。
「まだ冷たいわ」
陽子は水際に寄って、両手で湖水を掬い上げ、裕行に言った。裕行も陽子に倣
って、手を入れてみたが、それほどに冷たさは感じなかった。
「今日は陽が差さなかったから、水温も上がらなかったのね」
「同じものに接しても感じ方ってのは随分と異なるものだね」
「それはそうよ。夫婦といっても別の個性だもの」
陽子が先になる形で、二人は水際を歩き始めた。高いヒールをはいた陽子はとても歩きにくそうだった。
「こんな夕焼け、なかなか見られないわ」
「御岳の山の頂上から見た夕焼けもよかったけどね」
二人は山で知り合った。結婚してからも休みをとってはテントを担いで山を歩き回ったものだ。
「早いものね、もう五年よ」
「何が?」
「私たちが一緒になってからよ」
「ああそうか、僕たちも四捨五入すれば四十だもんな」
二人の結婚は遅いほうだった。お互いに好き勝手なことをしてきて結婚など眼中になかったのだが、そんな二人が初めて会った途端に“自分を見るようで”という
同じ印象を持ったのだから出会いの不思議に想いを馳せないわけにはいかない。それ以来五年間、二人は表面的にはうまくいっていた。
「ねえ、子供の時に砂浜に相合傘を書いたりしなかった?」
「僕は山育ちだから、それはできなかったけれど、山の中にね、自分の木を決め
ておいてね、それに好きな女の子と自分の名前を並べて刻んだりしたことはあったよ」
「ここに、今書いてみるわね」
陽子はそういうと、砂浜に打ち上げられた木切れを拾って、大きな文字を書き始
めた。中腰の姿勢のまま、後ずさりしたり、横歩きしたりして、靴の中に砂が入る
のも気にしないで、まずは自分の名前を、そして裕行の名前をその横に書き入れた。
「そんなに大きく書いちゃ、なんて書いてあるのか判らないよ」
「雲の上にいる神様に見せるのよ。ここにこんなカップルがいますってね」
裕行には陽子の意図するところが理解できなかった。
「それと、ここにこうして私が来たことを何かの形で残しておきたいの」
「それじゃまるで犬のマーキングか暴走族の落書きみたいなものだね」
「何、それ?」
「つまりね、自己顕示欲の所産さ。犬が電信柱に小便ひっかけていくのも、暴走
族が壁とか塀にスプレー塗料で“何とか参上”なんて吹き付けていくのも自己主
張の方法を知らない者たちの他愛ない行為だよ」
「あなたにかかると何もかもが、そんなふうに即物的に捉えられてしまうのね」
「そんなことではないけど・・・」
陽子が何を言いたいのかやっと察しがついた。
「人間に限らずどんな生き物でも自分がそこにいたってことを、そして生きていた
ってことを何かの形で残しておきたいと思うものじゃないかしら」
「君もそう思ったってわけ?」
裕行は陽子の書いた砂浜の名前を差して言った。
「そうね、本当はもっと確実な方法で自分が生きたあかしを残したかったんだけど」
「・・・・・」
裕行は陽子の気持ちをはっきりと掌の上に乗せることができた。
「赤ちゃん、産みたかったわ・・・」
「・・・・・」
「私がこの世に残していけるものって、他に何があるかしら」
裕行と陽子は病院からの帰り道だった。陽子に対する診断は彼女にとってつらい宣告となった。
「私、力が抜けちゃった」
二人は夕陽が湖面に落ちていくのをしばらく眺めていたが、やがて肩を寄せて家路についた。砂浜の名前はそのままにしてあった。
了
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