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『燃え上がる命の木』
  
                                      服部清人


 甚兵衛坂の街路樹が秋の色に染まり始めると、あたりの景色も日々異な
った様相を展開してくれる。木洩れ陽を浴びながらその坂を登って行くと、
街を見下ろせる小高い丘に辿り着く。そこに“緑陰茶荘”という喫茶店は
あった。庭には花壇が作られ、季節ごとに愛らしい花が咲いて、お客を楽
しませていた。
 恭一郎は絵描きという仕事柄、どうしても自宅のアトリエで終日を過ご
すことが多く、つい運動不足になってしまうため、できるだけ気の向いた
時は散歩に出るようにしていた。自分で決めた幾つかのコースがあるのだ
が、新緑の頃とか、紅葉の季節にはついついその坂道のコースを選んでし
まうのが常だった。それというのも甚兵衛坂の景色に加えて、緑陰茶荘の
主人の煎れるコーヒーのうまさが理由の一つに挙げられる。住宅街の一
角に位置する小さな店だが、常連客に守られて開店二十年になるのも、
その味を愛する人が多くいるからであろう。いつも気の利いた静かな曲が
邪魔にならないほどの音量で流され、客達も心得ていて、声高に喋るよう
な人はいない。恭一郎もその雰囲気が気にいって足を運んでいた。

 「イチョウが綺麗に色づきました」
いつものようにマスターがコーヒーと一言の挨拶をおいていった。その言
葉に促されて何気なく窓の外を見やると、少し下ったところに瀟洒な一軒
家があった。そこの庭にある大きなイチョウの木を差してマスターは言った
のだが、恭一郎はそれよりもその庭の手入れをしている婦人の姿の方に
目を奪われた。その顔には見覚えがあった。普段ならコーヒーを飲みなが
ら雑誌を読んだりして、ゆったりとした時間を過ごすのだが、その婦人が
楽しげに庭の手入れにいそしんでいる様子が遠目にも伝わり、つい見入
ってしまった。
「ご主人を亡くして一人であの家に住んでおられるんです」
いつのまにかマスターがコップの水を注ぎ足しに来てくれていて、恭一郎
の様子を見てとったのか、そんなふうに説明してくれた。恭一郎は見透か
されているような気になり、
「以前、この道ですれ違ったことがあったので、顔を覚えていたんですよ。
この家の方だったんですね」
と、言い訳めいたことを口にした。ただ、婦人がすれ違いざまにニッコリと
微笑んで会釈してくれたことは言わなかった。それがご近所同士の単な
る儀礼的な挨拶からなされたことであることは重々承知していたが、その
さりげない表情と仕草が恭一郎の印象に残っていた。            
「ああして、午後の決まった時間に庭の手入れをされるんです。実は私も
その姿を見るのが好きなんです」
マスターがそんな話をすることは珍しい。
「かいがいしい、というのかなあ。何か喜びが伝わってくるようだ」
恭一郎も素直に答えた。
「もうしばらくすると、たくさんの落ち葉で大変だ。彼女はそれを楽しみなが
ら片付けるのでしょうね。でも・・・」
マスターはそう言いながら、何かに気がついたように頭をぽんと叩き、
「お喋りが過ぎました。どうぞごゆっくり」
と言ってカウンターへ戻っていった。マスターの言いかけた言葉が気にか
かったが、すぐに頭から消えた。というのも一仕事を終えたその婦人が、こ
ちらへ向って歩いてくる姿が視界に入ったからである。年の頃は五十代後
半といったところだろうか。髪を後ろで結び、ジーンズのパンツに白い長袖
のシャツ。首には黄色いタオルを巻いていた。近づくにつれ、その顔つき
がはっきりとしてきた。ラフな格好をしていてもどこか気品を感じさせる。緑
陰茶荘の玄関まであと数歩というところまできて、不意に立ち止まり、後ろ
を振り返って自分の家のイチョウの木を見上げている。それは光を撒き散
らす魔法使いの箒のように、さわさわと揺れていた。婦人はそれを見上げ
て、しばらく佇んでいた。後姿を見るのは二度目だった。甚兵衛坂ですれ
違った時、彼女からの快活な不意の挨拶に対し、恭一郎はたじろいだ。
綺麗な人だなと思っているうちに通り過ぎてしまったので、後ろ姿に向っ
て声をかける形になってしまったのであった。彼女は振り向きながらもう一
度軽い会釈を返してくれたのだが、その時のうなじが、透けるように白く感
じられたのだ。それが最初。今、あらためて窓越しに彼女の後姿を見て、
そのうなじの白さが目に入った。それは画家の創作意欲を掻きたてる白
さであった。

 「今日も無事にすごせました」
そう言いながら、彼女はカウンターに腰をかけた。
「無理をしてはいけませんよ」
マスターが答えている。
「いつもの林檎ジュースをください」
それだけの会話だったが、何か含みがあることを恭一郎は感じ取った。
額と首筋の汗を黄色いタオルで拭きながら、彼女はおいしそうにジュー
スを飲み干し、すぐに席を立って、
「やり残してきたから」
と、出て行こうとした。そこへ
「どのみち明日あたりから、落ち葉の量が増えますよ。残りは明日いっし
ょにすればいいじゃないですか」
と、マスターが諌めるように声をかけた。
「だめよ、今日出来ることは今日のうちにしておかないと。大丈夫よ、今
日はとても気分がいいの」

 彼女は素敵な笑顔を残して、店を出て行った。恭一郎は離れた席から
一部始終を黙って見ていた。きっと訝しそうな顔つきをしていたのだろう。
それを察知したマスターの方から声をかけてきた。
「あんなに元気に見えますが、彼女は余命を宣告されているんです。あの
イチョウが最後の一枚の葉を散らすまで、見守っていられるかしらって、言
ってましたけど、あの調子なら大丈夫そうだ」
 恭一郎の脳裏に彼女のうなじの白さが蘇った。それから彼女が首に巻い
ていたタオルの黄色が、そしてイチョウの黄色も。しかし、それも次第にさわ
さわと揺れながら形をなさなくなっていった。

                                            了
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