『しゃぼん玉』
服部清人
大学で児童心理学を教える石山のもとへかつての教え子である菜月が結婚の挨拶にやって来た。ほがらかに結婚の馴れ初めを話す菜月の話は喜びに満ち溢れ、実に晴れやかであった。
「仕事はどうするの」
「出来るだけ続けようと思ってまーす」
彼女は保育士をしていた。
「毎日がジェットコースター状態!」とてもスリリングだけど楽しいということらしい。
「三、四歳位の子っていろんな能力に差があるじゃないですかァ、おませな子もいれば、なかなか言葉が出ない子もいるしィ・・・・」
「いつまでも語尾が締まらない子もいる」
石山はいつも若者と接しているのだが、どうしてもこの若者言葉に馴染めない。
「そうそう?エエ何のことですかァ?」
自分のことを言われたのだと思ってないらしい。
「この前もォ、シャボン玉の歌を歌いながら、シャボン玉で遊んでたんですよォ、そしたら、龍ちゃんていう子は知ってる知ってるってみんなより一フレーズ先に歌おうとするんですよォ」
「栴檀は双葉より芳しってやつかな。典型的な出たがり屋だ」
「しゃぼんだまとんだ、やねまでとんだ、やねまでとんでこわれてきえたってそこまで先行して歌ったあと、先生、大変や!ってみんなを制止して言うんですよォ」
「仕切りや的要素もある」
「シャボン玉吹っ飛んだ、屋根まで吹っ飛んだ、屋根まで吹っ飛んで壊れて消えてもうたら、もう家の中へは入れへんでって、まじめに困ってるんですよォ。おかしくて笑っちゃったけど、新たな解釈に感心してしまいました」
「なかなか頼もしいやつだ」
「そうかと思えば、さきちゃんはちょっと言葉が遅いんですねェ。周りの子ともうまくコミュニケーションがとれなくてェ、一つのことに熱中するとそればかりやってるんですゥ。それに特別音楽の才能があるみたい」
「どんなふうに?」
石山はちょっと興味をそそられた。
「おゆうぎのための新しい曲を歌って聞かせると一回聞いただけですぐに最後まで正確に歌えるんですよォ」
「僕はまだ出会ったことがないけど、そういう能力を持った子はときどきいるらしいね」
「でも龍ちゃんがシャボン玉で笑わせてくれた時、ちょっとした事件があったんですね。さきちゃんが二つしかないシャボン玉の道具のひとつを独占して熱中してたら、腕白な男の子がそれを取り上げて逃げちゃったんですよォ。そしたらさきちゃんは大泣きしちゃって、その泣き方が普通じゃないので、他の先生がもうひとつのシャボン玉の道具を渡したんですよォ。これといっしょだから、これでいいでしょって。でもだめだっていつまでも首を振って、ダダをこねるものだから、これもしつけだと思って叱ったんです。いつまでもわがままを許されて聞き分けない子になってはいけないでしょ」
「でも、さきちゃんは最初のやつじゃなきゃ駄目だと納得しなかったんだろ」
石山は話の状況から先回りして答えを言い当てた。
「どうしてわかるんですかァ」
「即断はできないが、さきちゃんは言語能力に遅れがある子のようだ。周りとのコミュニケーションもうまくとれない。たぶん日常の身の回りのこともままならないのではないかな。ところが音楽などの特殊な能力を秘めているらしい。三、四歳という年齢せいかも知れないが、さきちゃんは我々が日常的に物事を“言語で定義して理解する”能力に欠けているのか、それがまだ芽生えてないかのどちらかなのだろう」
「言語で定義して理解するなんて面倒くさいこと私だってしてません」
「確かに君は他人よりちょっとボキャブラリーが少ないかも知れないが、それでもその範囲内できちんと物事の輪郭を言葉でいったん捉えてから理解しているはずだよ」
「なんだか、高度な生物って感じ」
「ほめてるわけじゃない。常識人なら誰でも学習して身につけていく能力だ。たとえば目の前に黄色くて表面がぶつぶつで、丸い果物があるとする・・・」
「ヒント出しすぎィ、答えはみかん。ピンポン!」
「クイズやってるわけじゃないが、誰でも今の君のようにたんなる言葉が積み重なることだけで対象としている実体をイメージできて、“みかん”という言葉でよりはっきりと定義し、次に経験と記憶を駆使して、その色や感触や重量や味を認識するという作業を瞬時のうちにやっているんだ。お互い共通の認識を共有できるから、さっきのような連想ゲームも成立するし、和歌山みかんより愛媛みかんのほうが甘くて好き。というような会話でお互いの意思の疎通も図れる」
「私は和歌山みかんのほうが好きですけどォ、甘さの中にも酸味があって。それは関係ないかッ。先生の話は途中から難しくなってダメ。私達は幼稚園児にわかるような話し方を心掛けているんですよ。先生も少しは見習ってください」
「これでも相当わかりやすく話してるつもりなんだけどな。大人から見ればあの奪われたシャボン玉の道具もこのシャボン玉の道具も同じメーカーが作った同じ機能をもった品だから、何も遜色ない。だからこれでいいでしょ、と理屈で説得しようとする。しかし、さきちゃんはおそらくいろいろなことを写真画像のように直感的なかたちで記憶しているから、最初の記憶の画像に写った道具と次に写った道具はまったくの別物。たとえそれが同じ形、同じ用途を満たし、代用となりうるものでも、やっぱり全然別物なんだ」
「“同じようなものなんだから、いいでしょ”って私達はなんどもいいました。でもそれは理屈であって、本当は確かに別物なんですよねェ」
「たとえば大人だって、そういうところがまったくないわけじゃない。理屈から言えばシャボン玉の道具だって、男だって代わりはいくらでもいるんだから、どれだっていっしょでしょ。だからこっちで我慢しておきなさい、って恋する乙女の君に今言っても、他の男性と結婚することに同意するわけないよね」
「もちろんですゥ」
「さきちゃんの場合今後どういった成長をするかが問題だが、もし言葉がもっと操れるようになっていったら、もっと聞き分けのいい子になっていくだろうけど、そのかわり音楽的な才能は次第に影を潜めていくことになるだろうね」
「大人になっていくってそういうことですかァ」
「そう。習慣やしきたりや常識をわきまえ、ルールや法律を守り、知識を蓄えて経験にもとずいた適切な判断をし、そして大事なのはひとりでは生きて行けないことを大前提として、みんなで共生していく道を探ることが大人の使命だ」
「なんだかすっごい大変そうなんだけど、理屈をひねくり回す、ねじれてもつれた毛糸あたまのラーメン食べてる小池さんみたいなイメージですゥ」
「ラーメン食べてる小池さんって誰?」
「先生の世代でしょ。おばけのQ太郎に出てくるじゃないですかァ」
「ああ、なんとなく思い出した。髪の毛もしゃもしゃで、いつも苦虫噛み潰したような顔してラーメン食べてる人だ。でも君がなんでそんな漫画の登場人物知ってるの」
「なにごとも勉強ですゥ」
「もうちょっと違う種類の本を読んでほしいものだが、まあいいや、そうだね、社会で生きる術を身につけるというのはある意味ねじれてもつれた毛糸のようになれってことかなあ」
「先生の今の言葉はとってもアバウトだけどなんとんなくわかりますゥ」
「言葉を介して共通な視点に立てたという瞬間だ」
「世代を超えた共同作業ですゥ。ところで先生、今日は結婚式に出席して恩師ということでスピーチしていただきたいのでそのことをお願いにきたんです」
「それは光栄なことだね」
「でもね、先生、スピーチで難しい話はやめてくださいね」
了
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