『見守られつつ』
                                         服部清人
 
 歳のせいもあって片道二時間の運転は石橋にとって、少々きつい行程であった。それをもう十年は続けてきていた。注文を受けた商品を地方の小売店へ配達するのである。送りつけてもいいのであるが、自分で運ぶことでそこからまた話が展開して、新しい商売に繋がることもよくあったので、出来る限りそうしていた。石橋はもうすぐ六十歳になる。衣料品の卸業を長年営んできた。勤め人ならば定年の時期だ。長女はすでに嫁がせたが、長男の孝雄は京都の大学院に通わせている。将来は薬の研究者になりたいと言っていて、四六時中、研究室に張り付き、教授を補佐して新薬の研究に没頭しているらしい。時折妻の佐知子が連絡をとっているようだ。
― 元気でやってるみたい。
と言う佐知子の言葉を時折聞くだけで、孝雄のことには口をださないようにしていた。ただし、生活力のない彼のために仕送りだけは続けている。繊維業界全体が傾いてきた状況のなか、売り上げは毎年確実に減少していたのでその仕送りは決して楽なものではなかった。その意味でも顧客を大事にしなければいけないし、地方で新たな客を開拓したい思惑もあって、くたびれてきた体に鞭打ってハンドルを握るのだった。

 十一月のその日も朝早く家を出た。一日を有効に使うためだ。今にも雨が降ってきそうな曇り空の下、自分に気合をいれて車を発信した。すると最初の信号に差し掛かるあたりで、小さなクモが助手席で動いているのを見つけた。別に何か悪さをするわけでもないし、放っておいてもかまわないかと思ったが、巣をはりめぐらされても困るので、ティッシュでつまんで外に追い出すことにした。ところが信号は赤から青に変わり、後続の車に追い立てられたので、脇見をするわけにもいかず、しばらくの間、目を離すことになった。これは逃げられたかなと思っていたら、クモは移動して自ら缶コーヒーを置くための窪みに入り込み、そこから抜け出せなくなっていた。深さはせいぜい2センチくらい。直径は10センチもない丸い土俵のようなところだ。ところが車の振動もあってか、そのたった2センチが登れずに四苦八苦している様子だった。これなら無理矢理外へ追い出すこともないかと思い直し、そのままにしておくことにした。旅は道連れ世は情けとはまさにこのことだと、石橋は頬をゆるめた。

 その後もクモは健気にも登っては落ち、落ちては登りを繰り返していた。休むこともなければ、諦める事もしないのである。石橋がちょいと手を貸してやることは簡単だ。また反対に一息にひねり潰してしまうことも容易いことである。しかし、石橋は運転しながら時折チラッと目をやってクモの一所懸命を見続けた。
― このクモにとって、今の俺は神にも等しい存在だな。こいつを生かすも殺すも俺次第だ。
そんな考えが浮かんだ。次には孝雄の姿がだぶって見えた。毎晩研究室で失敗を繰り返している孝雄もこんなふうに、研究と称した徒労をひたすら重ねているのだろうか。なんだか孝雄のことが不憫に思えてくる。
― 企業に就職するとか、他に進むべき道があるんじゃないのか。
石橋は佐知子にそう言ったことがあった。同級の者たちは皆、製薬会社の研究室で活躍しているらしい。相当な収入を得ている者もいるということだ。孝雄は幼い頃から、一人でこつこつと何かを作ったりすることが好きなタイプで、社交性に欠けているところがあった。親としてはそんなことも少しは気がかりであったが、性格というものは突然入れ替えられるものではない。今のポジションは孝雄にとって、最善の選択だったのかもしれない。
― 彼の人生なんだから、彼なりに考えているわよ。
佐知子はいたって楽観的だ。以前と違って最近の夫婦の会話はいつも短く終わる。家族の形態も変化していくものだとほんの少し感傷的な気分になりかけていると、不図、後部座席に気配を感じた。車内のバックミラーに目をやってみるが何も写っていない。しかし確かに背後に視線を感じたのだ。頭の中のスクリーンに“クモを見つめる自分、その自分を見つめる白髪白髭の杖をついた老人”という画像が映し出された。
全能の造物主が私たちのスッタモンダをじっと背後から黙ってみつめているという図式である。偉大なる神様が漫画に描かれるような白髪白髭の杖をついた老人というイメージを描いた自分に苦笑を禁じえなかったが、神様から見ればクモも孝雄もそして石橋も小さな土俵の中であくせくと生きている取るに足らない存在であることに変わらないのではないか。
― どうかもう少し見守っていてください。 
 信号が青になった時、石橋は後部座席にいるはずの白髪白髭の杖をついた老人にそっと声をかけた。
                                             了
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