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「八時三十分の男」
服部清人
「最近の景気はどうですか」
展示物を一通り見て回ったお客さんが商売をしている方だったりすると、小さな骨董屋を営む磯崎は話の切り出しについこんな挨拶をしてしまう。
「何とかやっているって感じね」
和泉さんはひとりで居酒屋を切り盛りしている女性で、磯崎も彼女のところへは何度かお邪魔したことがある。カウンター席だけの店内はいつも常連客がい
っぱいで、肩幅を縮めながら、ひとつずつ席を詰めてもらってやっとのことで足の長い丸椅子に腰を沈められるといった具合のお店だった。
「和泉さんのところは不況なんてどこ吹く風って感じでしょうね。常連さんが増える一方で」
お世辞ではない。本当にそれくらい繁盛している様子だった。
「常連さんは確かに有り難いんだけど、どんどんと新しいお客さんにも来ていただかないとやっぱりね」
うん、うんと頷きながら磯崎はあらためて和泉さんの様子を見ていた。ちょっとした立ち振る舞いに品があって美しい。心身を自らに律している潔さが漂っ
ていて凛としている。詳しい素性はわからないが、色々な人生経験が今の彼女をそうさせているのだろう。
「そう言えば、磯崎さんところのお客さんがうちへも来てくださっているのよ」
「どんな方ですか」
和泉さんはその男性の特徴を説明してくれた。
「ああ、わかりました。市川さんだ」
磯崎が思い当たる人の名を言うと、彼女は
「そう、市川さんというの」
始めて聞いたように小声で答えて、もう一度今度は声に出さずに唇だけ動かして、それを呑みこんだ。
「だって、その方、もう何度も来てくださっているんだけどいつも一人でほとんど誰とも話そうとしないのよ。でもね、現れるのがいつも決まって土曜日なの」
磯崎の知っている市川さんのイメージとは随分違うなと思いながらも、彼とて市川さんの素性にはそれほど詳しいわけではない。
「しかも、必ず八時三十分なの。最近はどこも週休二日で土曜日は開店休業状態なんだけどそうやって来てくれる方があると、早仕舞いってわけにもいかなくて」
その後も和泉さんと磯崎は市川さんの話題でしばらく盛り上がった。市川さんの味の好みとか、癖とか、読んでいる本のこととか。どうも市川さんは酒を
飲みながらひとりカウンターで小説を読んでいるらしい。何だか変な人だ。決まって八時三十分というのも意味有り気で、何か思惑が見え隠れする。昔、ジ
ャイアンツに宮田というリリーフピッチャーがいて八時三十分になると決まってピンチに登板してきた。ところが、この宮田投手、動作が緩慢で、(本当は
わざとゆっくり間合いをとって相手をじらしていたのだが・・・)必ずテレビの放送時間に間に合わなくなってしまう。見ている方まで、じらされてしまう
のだ。磯崎が野球に興味を持っていた頃の話だが、「早く投げろよ、もう」なんて思いで画面を見つめていた方も多いと思う。市川さんにもそんな意識がど
こかにあるのだろうか。必ず八時三十分に現れて、カウンターで酒を飲みながら、ひとり悠然とマイペース。じらしてじらして、いつのまにか自分のペース
に引きずり込んでいく蟻地獄のような手法を市川さんはとっているのだろうか。しかし、今時そんな古典的なアプローチが効を奏するとはとても思えないの
だが、ところが和泉さんの様子を見ていると、どうもいつもと違って艶っぽい。ふ―ん、なるほど。そういうことか。市川さんもなかなか隅に置けな い。二人がどんな事情を抱えているかなど知る由もないが、うまくいくといいですね、と声をかけたくなるような雰囲気だ。「市川さんが来たら、言ってお
いてあげますよ」と、磯崎が言うと、
「えっ、なにを?」と、わずかに恥じらいを見せながら和泉さん。
「ベッドで煙草を吸わないで。じゃなくて、酒場で本を読まないで」
「なによ、それ」
「もっと、ママさんとちゃんとお話するように」
「駄目よ,そんなこと言っちゃ」幾分顔を赤らめながら,慌てて否定する。
「そんなのじゃないんだから」
五十歳手前にはなっておられると思うのだが、女性としてだけではなく、人間的な魅力を感じさせる方だなあ、とその時あらためて思った。うまくいくといい
ですね。声にこそ出して言わなかったが、心の中で呟いていた。帰り際にお愛想のつもりなのか、それにしては渋い古唐津の小皿を一枚買っていかれた。金
直しの施された発掘の品だが、ちょっと無理すれば盃にもなるか、といったものだった。
そんなことがあってから二、三週間後の土曜日、陶芸家の角田さんと画廊で遅くまで話しこみ、じゃあ一杯いきますか、ということになったので、かねてより話しに聞いていた栄町の倒れそうなビルの地下に有るレストランバーに誘った。ボックスシートに腰をおろし、注文を終えてふと見るとカウンターの隅に市川さんの顔があった。隣には私の知らない女性が肩を寄せている。その親密な様子は傍目にも瞬時に見て取れた。あれれ、こりゃまずいところに居合わ
せたな。向こうはまだ気がついていない様子。その時はっと、和泉さんの赤く染めた頬を思い出した。今日は土曜日。しかも時間は八時二十五分。
「市川さん!登板の時間が迫ってますよ。こんなとこで、そんな女とねんごろなんて場合じゃないでしょ」
と、磯崎は彼の背中に向かって声をかけようか、とも思ったが、やめた。そして見なかったことにしようと決めた。しばらくすると市川さんとお連れの女性
は席を立って出ていった。
和泉さんは今頃、市川さんのために店を開け、古唐津の小皿につきだしをのせ、
「遅いな・・・」
なんて時計を眺めているのだろうか。磯崎は甲斐甲斐しく働く和泉さんの姿を思い浮かべながら袖をめくって腕時計を見た。八時五十分になっていた。
了
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