『阿留邊幾夜宇和(あるべきやうわ)~八木祥二(会社員)』
服部清人
京都西北の栂尾高山寺開山、明恵上人⁽¹⁾の遺訓には“人は阿留邊幾夜宇和の七文字をたもつべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至、帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり”とある。この七文字の意味を理解するのは簡単なことではない。どうも深遠な人生哲学の探求の果てにたどり着いた言葉であるようだが、これまではあまり深く追求もせず、ビートルズの『Let It Be』⁽²⁾とどこかで結びついて、“あるがままになさい”という意味だと解釈して過ぎてきた。己の分際をわきまえ、ただ天の導きに従い、あるがままを受け入れていくがよいという“words of wisdom”であると。
八木さんにお話を聞く内にこの明恵上人の言葉が蘇ってきた。彼の何がこの言葉を想起させたのかはまだわからない。この一文を書き綴りながらそれを考えてみたいと思っている。
八木さんは昭和30年、名古屋市東区山口町で生まれた。当時父上の忠雄さんは印刷業を営んでいた。その仕事を受け継いで、現在兄上と一緒に経営に勤しんでおられる。古く中国で蔡倫⁽³⁾が紙を発明したとされるが、それ以来“紙媒体”と呼ばれる本や新聞や雑誌といったメディアは現在でも主要な記録や伝達の手段であるに違いない。しかし、テレビ、ラジオに続き、今やインターネットといった情報伝達機器が発達するにつれて、紙を使った伝達方法は急速にその地位を追いやられることになってきている。必然的に印刷業界も変化を強いられているはずだ。「時代の大きな流れや、科学技術の発展は止められるものではないから、それは受け入れなくてはいけないわけだけれど、より専門的な技術を提供していくことが我々の生き延びる道になるんだろうね」と八木さんはさらりとかわされた。時代が変化していくことの是非をとやかくいっていても始まらないということか。あっさりとさりげない潔さを示されるので、それ以上話が広げられなくなってしまった。
では話を本題に移そうと、まずは生い立ちについて聞いてみた。父上の忠雄さんは仕事のかたわら刀装具などを中心とした骨董の趣味があった。加藤唐九郎⁽⁴⁾や楢崎彰一氏⁽⁵⁾とも親しかったことから、焼き物にも造詣が深かった。近くには徳川家の別邸があって、その後そこが徳川美術館⁽⁶⁾となる。加えて当時の山口町周辺には輸出用の陶磁器を絵付けする工場がたくさんあって、気がついた頃には周辺に文化的な、特に焼き物に関する環境が整っていたということだ。その父上に連れられ、「薄暗く黴臭い古道具店へ出入りするようになり、自然に古いものに接していったんだ」八木さんは次第に一人でも探索を始め、そのおもしろさにのめりこんで行く。「この菖蒲模様の猪口は十八歳の頃、当時の国鉄に乗り、雪のちらつく中、彦根の城下まで行き、見つけた思い出深い物だね」もう35年以上前のことだ。「この猪口で随分と飲んだな」今でも愛用しているとのこと。「私の場合、使うということが第一儀だから、いつも手の届く食器棚に置いて楽しんでいる」なるほど食器棚は彼の戦利品で一杯だった。
「これが昨日の吹上骨董市で買ったもの」と言って見せてくださったのは豆皿六枚と笹島焼の四方皿。「今回はいつもの二倍以上の人が開場前から並んでいたからね。なんだかんだいいながら、みんな飽きもせず出かけるんだね」年に三回の吹上をはじめ、月に二回の大須骨董市にはほとんど顔を出し、毎回何がしかの品をぶら下げて帰るのが常というから、さぞかしモノで溢れているだろうと思いきや、お部屋は整然としていた。「普段は部屋の隅にも色々と置いてあるんだけど…」と、つまり整頓をなさったようだが、片付けられた氷山の本体の方もちょっと気になった。同好の士というか釣果を自慢し合うお仲間はあるのですかという問いに、「いや、あまり親しくしている人はいないですね。本来そういう人は敵ですから(笑)」つまり骨董をめぐるライバルであるということだ。「私はあまりモノに拘らないほうで、蒐集に関して明快な目的意識があったり、徹底的に調べて研究したり系統立てたりということはしないほうなんです」もちろん謙遜もあると思うが、確かに買ったり使ったりすることが好きで、その挙句にこんなに蒐まってしまったというのが実態のようだ。しかし、数は力となる。小さな豆皿も国焼の食器類もこれだけ蒐まると壮観だ。そこで平成13年には『我家の食器棚の中―普段の生活に生きる古陶磁―』と題した彼の蒐集品展示会が荒木集成館⁽⁷⁾で開催された。幕末期の美濃、瀬戸をはじめとし、豊楽、笹島、夜寒焼などの名古屋のやきもの⁽⁸⁾が一通り展覧され、多くの賛同を得た。
「まあ長くやっているとそんなこともありますよ」これも特別なことではないといった口振り。また、骨董・古美術の愛好者が集まって作った研究会である『同気会』⁽⁹⁾『美の美の会』⁽¹⁰⁾にも参加し、研鑽を積み、見聞を広められている。というよりモノのあるところに吸い寄せられる蝶のようなものか。「根っからのモノ好きなんですね」と、これもいたって淡々。口振りに変化はない。
そんな八木さんが不意に「これ何かわかりますか?」と見慣れぬモノを差し出された。それは往年のテレビアニメ『エイトマン』⁽¹¹⁾を鉛でかたどったものらしい。「カタヤさんていたでしょう。小学校の門の前とか、お寺の門前に」よく聞いてみると“型屋”のことらしい。「子供相手の商売で、つまりは粘土を売ってるんだけど、それだけでは売りっぱなしになっておしまいだから、そこで仕組みがあるわけよ。粘土といっしょに型も売ってくれるんだな。漫画のヒーローとか怪獣とかの型に粘土を押し込むと簡単にできるんだ。粘土の感触はどこか人間の本能に結びついているところがあって、木を削ったりするのと同じように始めると夢中になってしまうんだよね。その上に色粉や、時には奮発して金・銀・銅粉をふりかけて、もう一度型屋のオッチャンのところへドキドキしながら持っていくんだ。すると、オッチャンが点数を付けてくれて、点数札をくれる。自分が工夫して一生懸命作ったものが評価されて目の前で点数をつけてくれるのは子供にはとってもうれしいことだね。しかもこれが金券に相当するものだから、また粘土や型を買うときにそれを使う。今のポイント制度のようなものかな。子供たちは競ってもっと大きくて立派なものを作ってオッチャンのところへ持ち込もうと、どんどん新しい粘土や型を買っては金券儲けに挑戦していくというわけ」調べてみると、昭和20年代から30年代の初めにかけて、そのような商売があったらしい。「資本を投入して仕入れをし、工夫して物を作り、上手くできたものにはその対価をいただく。そしてそのお金を元手にまたもっと大掛かりな物造りに挑戦していく。これって現実社会の仕組みと一緒だよね」型屋さんは商売しながら、子供たちに社会体験をさせていたわけだ。「ところが現れて二週間目くらいに、オッチャンは忽然と姿を消してしまうんだ。子供たちの間にはすでにバブルが起きていて、嬉々として金券をつかんでは見せびらかしたり、さあ次は何に投資しようかと意気込んでいる者もいるところへ、その全ての裏付けとなるオッチャンがいなくなってしまっては、資本主義社会は成立しない。バブルの崩壊さ。金券はただの紙切れになる」子供を相手にしたどこかあこぎな商売のようにも思えるが、好意的に見れば社会の仕組みを実践教育しているようなものである。「このエイトマンはその頃の思い出の品。子供の頃は一途だったよね」いや、今でも結構一途だと、お話を伺ううちに一途という言葉がキーワードになって、少し手がかりがつかめたような気がした。
偉大な創造も尊い教えもどこかで経済と結びついていて、我々はその中でしか生きていけない。“人間は社会的動物である”とはアリストテレス⁽¹²⁾の弁だが、確かにどれだけ意地を張っても一人では生きていけないのである。常に変化していく社会状況や世の中のシステムを柔軟に受け入れながら、無理をせず、それでいて何かにこだわりを持ってそれを終生探求し、与えられた生命を十全に楽しむ。このことが“words of wisdom”賢き言葉を持ちえた人間だけに与えられた特権であろう。「おもしろいと思うものがあればどこまででも行くよ」八木さんの立ち振る舞い、言動から感じていたものの正体とはこういうことか。つまり明恵上人が“あるべきやうに”としないで“あるべきやうは”としていることに繋がる。“なるがままに受け入れなさい”という受身ではなく、“あるべきやうは何か”という積極的な問いの上にきわめて実存的な生き方を提唱しているのだ。彼もそこのところを柔軟にさりげなく実践しておられるようだ。実に一途な立ち姿である。
一度、何人かで奈良のお茶会に参加した折、八木さんとご一緒したことがある。彼はいつもの作務衣姿に手提げ籠をぶら下げて現れた。中には遠征用のぐい呑や茶籠なんかが入っており、食事の時など、それを使っておいしそうに酒を飲んでおられた。古都のゆるやかに流れる時間と気配。ちょうど新緑の頃で新しい芽吹きが陽の光に輝いていた。自然と人と文化とモノがすべてうまく絡み合って、とても爽快な一日だった。
「先に行ってるよ」奈良国立博物館の裏手にある茶室『八窓庵』へと続く橋を八木さんはずんずんと先に向って突き進んでいった。掲載の写真は同行の方がタイミングよく納められたショットだ。後姿が颯爽としていてやっぱり一途な感じである。
了