『コスモポリタンとして~清水喜守(美術史専攻学生)』
服部清人
大航海時代(1)のマゼラン(2)は海を眺めながら、ただ広いな、大きいなと感動するだけの人間でなく、あの水平線の向こうには何があるんだろうと、考えてしまうタイプだったに違いない。しかも思いついたら居ても立ってもいられなくなり、本当に行動してしまう無鉄砲で向こう見ずな性格だったのだろう。彼が自らの命を顧みることもなく水平線を目指したことで地球は丸いということが実証され、文化や文明は広く伝播し、世界中のそれぞれの地域はその後ますます密接な関わりを持つことになっていくわけだ。そんなマゼランを持ち出すまでもなく、いつの時代にもコスモポリタン(3)として世界を舞台に生きている人はいて、彼らは国籍や国境の隔たりなどまったく意に介していないように見える。
清水喜守さんは昭和58年生まれというから弱冠26歳。これまでの『蒐める人々』の中では最年少だ。グローバル化された現代を生きる若者たちは柔軟で自由な発想に基づき実に身軽に越境するが、まさしく喜守さんもその一人である。
そんな喜守さんのことを紹介するのに、ここで一つ付け加えておかなければならないことがある。それはご両親のことである。お父様の道隆さんは若き日に芸大で油画を専攻した画学生であり、お母様の美穂さんは西洋史、とりわけユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴヴィナを研究する才媛であった。お二人はそれぞれヨーロッパ放浪とサラエボ大学留学が目的で訪れていたスペイン、マドリッドの路上で偶然出会う。それが縁で結婚し、喜守さんが生まれるのだが、このお二人がよい意味でのインディペンデントな考え方の持ち主で、世間一般の親御さんとは異なったものさしを持っておられる。現在は岐阜県関市の迫間山頂上近くにある迫間不動尊(4)門前で、道隆さんのご両親が始めた創業51年目の『極楽茶屋』というまさしく峠の茶店を切り盛りされている。このお二人にも以前からよくお越しいただいているのだが、今回の訪問で初めてお店にも伺い、短い時間であったが、暑い最中に汗をかきながら生き生きと働くその様子に接することができ、自分の中に揺れるものを感じた。“揺れる”というのは語弊があるかもしれない。もちろんよい意味で言っている。その時の驚きを伴った感情がなかなか整理できなくて、帰ってきてからもこの一文を書き始めるまでにしばらく時間がかかったのだが、小生の中でひっかかっていたのは、土地に縛られ、成果や評価ばかりを気にかけている自分にはない価値観の中で生きている人がいるという目の前の事実であった。このことは個人の自由が充分に保障され成熟した社会だからこそ享受できる特権かもしれないが、それをこのお二人は実に肩の力が抜けたさりげない調子で実践されている。日常のお仕事をこなしながら道隆さんは今でもアンフォルメル(5)な絵を描き続けているかと思うと、陶芸やお茶や長唄にまで手を出されているし、美穂さんは内戦による荒廃から立ち直ろうとするボスニア・ヘルツェゴヴィナへ定期的に出かけて研究にいそしんでおられる。このお二人のまったくマイペースな生き様が喜守さんの背景にあることは間違いない。
中学三年生の始め、ご両親の勧めもあって喜守さんはイギリスへ留学することになる。最初に入学したのはサフォーク州の語学学校。その後ドーセット州のオーハローズカレッジ校へ入学。小麦畑がどこまでも広がるのどかな土地の創立400年の伝統校だった。ところがあろうことかその年度の一学期で学校は経営難に陥り、廃校になってしまう。「よりにもよって僕が入学した年に400年の歴史を持つ学校がつぶれるなんて、と思いましたよ」そこで、急遽新たな落ち着き先を探して、サマーセット州ブルートンのキングススクール・ブルートンへ転校した。このロンドン南西部の全寮制中・高一貫校でラグビーをしたりして学生生活を満喫する。「その学校にいた頃の帰省時に父に連れられて初めてお店へお邪魔したのだったと思います」実は小生はその時の記憶があいまいなのだが、喜守さんがしっかりしていた勢もあって、彼のことを専門学校生くらいに受け止めており、そんな若さだとは思わず、帰省のついでにデルフトのタイル(6)でも買ってきてよ、などと気軽に声をかけてしまったようだ。代金も渡さずにである。すると次の帰省時には本当に何枚ものタイルを持参してくれたりして、それを基に小さな展覧会を開催したりもした。そんなことがあって次第に親しくお付き合いをさせてもらうようになっていったのだが、その間にもブルートンにあるアンティークショップの主人、母方の祖父で中日新聞社OBの鎌田政志さん(実は小生とは共通の知人がいることがお話の中で次第にわかったりした)などとご一緒にお越しくださったりと、彼の交流の一端に接する機会も何度かあって、その度ごとに逞しくなっていく様子を頼もしく傍から拝見してきた。その後ロンドンサザビーズ(7)がオークションとは別に経営している学校のショートコースで西洋美術を、同様に大英博物館(8)が開催するコースで東洋美術を受講したりして、次第にご両親のやってこられた美術と歴史の折衷とでも言うべき道を歩みだしている。近年はその受講生時代に知り合った韓国の同好青年と二人して東京の一流古美術店へ出入りするようになり、一気にこの世界の頂点を見据えることとなってきた。たくさんの優れた品を実際に手にとって見る経験が多ければ多いほど、身につくものも大きい。物事を理解するのに書物からの知識だけでは偏ったものになる。経験が伴ってこそ知識も生きる。何の分野でも同じことが言えるかと思うが、知識と経験は車の両輪、飛行機の両翼のようなものだ。どちらが欠けても正しく機能しない。喜守さんにとって今はひたすらその両方を蓄える時なのだろう。幸いよい刺激を与えてくれる人々は周りにたくさんいるし、今後、彼が積極的に動けば動くほどその数は増えていくに違いない。
お店のある迫間山を降りた麓の集落に清水家の住まいがある。周囲を山で囲まれた場所だ。そこでお話を聞いた。「この地域の人達ってどうしてなのかわかりませんが、個性的な人が多くって」流行の言葉で言えば“キャラがたっている”というやつか。「一軒向こうの幼馴染のお姉さんはクロアチア人と結婚して子供達と一緒に住んでいるし、他にもアメリカやイタリアなどとの繋がりがある人が多くいるんです」そういう気風がこの土地にあるのかどうかはわからないが、少なくとも喜守さんはよくありがちな田舎町の窮屈さをまったく感じていなさそうだ。これはご両親にも言える。広くて大きな世界と繋がっているという自覚があるからだろうか。どこにいて、どんな生活をしていても想いは瞬間に世界の裏側にまで到達する。想いだけでなく、今や携帯電話やパソコンといった魔法の機器のおかげでリアルタイムに世界中の誰とでも繋がることができるようになった。国境や国籍にこだわらない時代が始まっているのかも知れない。そして、それは私たちにとってよい未来をもたらすことになるのだと信じたい。
「僕が骨董に興味を持ったのはこの壷からでした」小学校4年生の時に父、道隆さんが買い求めてきた備前の壷の値段を聞いてビックリしたらしい。「なんでそんなに高いのと、思わず聞いちゃいましたよ」それでも一端興味が湧くとそれまで見過ごしていたものがまったく異なった様相を呈して次第に目に入ってくるようになる。「ピューター(9)の肌合いや色具合がもたらすちょっとした印象の違いとか」そのちょっとした違いが大事なのだが、「六古窯(10)の壷や山茶碗(11)が見せる微妙な景色」そこにまで注意力が喚起されることになっていくものだ。壷の造形はダイナミックだが、その肌合いは繊細である。その微妙な違いを見極めていくのがこの世界の醍醐味である。わずかな違いの中に無限の広がりを見出す想像力が大切だ。狭くて偏った骨董の話から突然飛躍するようだが、人間同士がお互いの微妙な違いを認め合うこと。その違いを面白いと感じて尊重しあうことができたら、世界はパソコンの中だけでなく、もっと近づくことができるのに違いない。
想像力を大いに働かせ、それとともに行動することも怠らず、世界と上手く付き合いながらコスモポリタンとして生きていくこと。喜守さんの様子を見ていると、何の違和感も障害もなくゆっくりとではあるが、そんな方向に向って着実に進んでいっている様子だ。
陽が傾き、もうこんな時間かと気がついてから、またひとしきりお話をした後で、ご家族に送られてご自宅の前に出た時、向いに迫間山がせまっていた。かつて名古屋からお嫁入りしてきたお母様に思わず、最初はさみしくなかったかと伺うと、「いいえ、まったく。どこにいてもいっしょです。ちょうどボスニアもこんな景色のところなんですよ」という答えが即座に返ってきた。「よい空気を吸って、よい人たちに会って、よい本を読む。どこに行っても、それは同じです」横で喜守さんもその言葉を聞いていたはずだが、その時彼がどんな表情をしていたかは確認しなかった。
了
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階段箪笥の上:イギリスドール椅子、18世紀デルフトタイル、猿投耳皿
伊万里白磁大皿
父、道隆さんがこれから描こうとする200号のキャンバスの前にピアノ
内田鋼一の焼〆皿に李朝分院小壷など
ハッダストゥッコ仏頭
白鳳鬼瓦残欠
信楽壷(室町時代)
山口長男 「墨彩」
塼
須恵器小壷とエールグラス
越前小壷(室町時代) 「購入後10年以上経ってから大鍋でぐつぐつ煮たところ直しの部分がとれて魅力的な景色が現れました」
備前大徳利(桃山時代) 「肌も渋いし、耳が欠けているせいでラインがすごく綺麗。衝動買いしました。
時代箪笥の中に各古窯壷