その日は朝早めに家を出て、笹山さんの日常の生活の場である四日市のご自宅へと向った。そこで合流し、車中お話を伺いながら、伊賀丸柱の工房を見学させていただこうという予定だった。少々風があり肌寒かったが、ところどころ紅葉が始まっており、格好の行楽日和である。途中、信楽のMTHOミュージアムへ寄って、開催中の「大和し美し 川端康成と安田靫彦」展を観覧した。川端康成も安田靫彦も日本の伝統や風土を愛し、それを自らの創作に生かした先達だ。そして高い視点でもって優れたモノを蒐集したコレクターでもあった。この展覧会は二人の人物像と美意識、そしてその目で選び抜かれた品々を見せる構成となっている。まさしくここでご紹介している私共の趣旨と同じではないか、と内心で思いつつ大いに期待して鑑賞した。よい展覧会であった。この国は美しいとあらためて思わせてくれる展示品の数々が微妙に絡み合い、不思議な波長を生み出し、上質な音楽を聴いたような気分だった。名残惜しく美術館の玄関を出て見渡すと古代より続くこの地域一帯が日本の原風景をそのまま残す山里であるということに気付かされた。人間の手が入っていない自然美がそこにはまだあった。
国道422号を信楽方面から下り、県境を越えて伊賀に入るとすぐに右に折れて、幅の狭い小道をすこし山に向って登る。そこに笹山さんの工房がある。もう十五年以上のお付き合いなのにもかかわらず、そういえばお訪ねするのは初めてのことだ。
伊賀と信楽は山ひとつ隔てた隣接地で、室町時代にさかんに生産された水瓶や種壷に関してはその区別が難しいとされる。桃山時代になって伊賀藩主、筒井定次(1)が茶の湯のための陶器、つまり茶壷や茶入、花入や水指を生産し始め、ここから独自性が生じてくるのだが、これらを“筒井伊賀”と称した。その後、江戸初期に小堀遠州(2)が焼かせた“遠州伊賀”や藤堂高次(3)の“藤堂伊賀”へと、その技術は受け継がれていく。いずれにしても一貫しているのはこの地で産出する土の特異性をうまく生かした他にはない風合いの焼き物であるということだ。なるほど、この自然だからこそ、この土地だからこそ育まれる産物があるのだという当たり前なことを今更ながら気付かされる。
笹山さんはよく「やきもんやです」と自己紹介なさっている。陶芸家という呼称は現代においては人口に膾炙しており社会的にも認知されているが、ご当人達は意外とこだわりを持つ方が多い。「陶芸家って芸術家のはしくれみたいな意味をふくんどるやん。そんな意識あらへんもんなあ」笹山さんもそう答える。ただし、もちろんこの「やきもんや」には隠れた自負があって、たとえば楽吉左衛門(4)が楽美術館の前に本阿弥光悦(5)の書いたとされる「ちゃわんや」の暖簾を掲げていることとちょっと通じる。では、笹山さんのその自負を裏付けているものは何かといえば、やはりこの土地に繋がるご自分の血であったり、記憶であったり、誇りであったりといったものであろう。「季節ごとに移り変わる山の景色、轆轤を回す音、土をこねる時の感触、煙の匂い、ラッパ飲みしたやかんの冷たい口触り、そんなもんが今でも時々ふっと蘇るよ」五感で感じ取ったものを大事にしてモノ作りすることこそが何よりも尊いことと信じているからこその言葉であると言える。とはいえ今だからこそ素直にそう言えるのだが、最初からそうではなかったようだ。伊賀丸柱で生まれ、父方も母方も製陶業に関わってきたという宿命みたいなものに反発するのは、むしろ当然のことだったと思われる。「焼き物が当たり前に目の前にあったけどな、同じものをひたすら作り続ける職人に俺は向いてない」と感じ、そこで15年間はサラリーマンとして働いた。それでもその傍らで、ずっと作ることは続けていた。結局気がついたら会社を辞め、ちょっと寄道をして“やきもん”をなりわいにしていたということだ。
「この前な、木工で生きてこうとしてる若い子がきたんや。何年か修業して、かっちりしたもんを作れるようになったらしいんやけど、どうも満足でけへんからくずしたもんを作るようになったみたい。見せてもうたけどな、まだなりきれてないもどかしさがあるみたいやったな」」工芸品の目指す究極はひとつには正確さであろう。“寸分の狂いもなく”と形容されるような定規できっちりと測られ技術の粋を凝らしてつくられたようなモノ、人々はそういった類のモノに立派な仕事だな、人間技とは思えないなと感心の念を抱く。ただ、日本人はその文化の中で、くずれた、ゆがんだ、ほころびた、すれたモノにも、安心を抱く習性を培ってきた。というよりは我々の因子の中にどうもそういうものがそもそも備わっている。その若き木工家も自分の中に眠っていた因子が目を覚ましてしまったのだろうか。「もう一人な、この前お店に来てた仏師だという若い人、彼の作った仏像見て思ったのは、目的や意識が違うとできるもんもまったく変わってくるってことをあらためて感じたな」たまたま私共の店に笹山さんがこられている時、居合わせた若き仏師が語る彼の理想と、実際にこれまで作ってきた仏像の作品写真を見せてもらったことがあって、その時の感想を話しておられるのだが、「ええの、悪いのをゆうとるんじゃないけどな、たとえ同じ山を登るにしても俺とは選ぶルートが違うって思ったな」その人の持っている素養や学んできた環境の違いによって表現の方法は変わり、信じるものも目指すものも一見異なって見えるが、結局落ち着くところは同じだということだろうか。また以前、笹山さんの口から“手ぐせ”ということを聞いたことがある。人にはそれぞれのリズムがあり、それはつまり呼吸ということにも置き換えられ、その独自の呼吸に手が連動してモノが出来ていく、そのことを言っておられるようだ。確かに音楽はもちろんのこと、陶芸、絵画、彫刻、書においても言葉は違うが同じような捉え方ができる。基本を忠実に学んで、学びぬいた後にそれでも滲み出てくるようなもの、それが個性であり、つまり“手ぐせ”なのだと理解した。「例えばな、半泥子(6)の手ぐせと唐九郎(7)のそれとは違うんや」確かに違う。轆轤の回転にまかせて手を添えているだけなのに、その力加減、つまり手グセが違うことで出来上がりは大きく変わる。そして、それぞれがいかにも半泥子であり、唐九郎であるのだ。そうやって出来上がったモノにああだこうだといわく因縁をくっつけて“芸術品”だと称しているのが世間だ。「やきもんはどこまでいったってやきもんやで、そんでええやん」笹山さんはストレートに言い切る。とかく大仰に芸術を振りかざす輩にはちょっと鼻じらむが、笹山さんのような姿勢は一本の太い心棒が貫かれているようで頼もしい。このこともまた伊賀の風土と結びつけて理解したくなるのだが、それはちょっと強引なのだろうか。
しばらく主が不在となっていた工房はひっそりとした冷気が沈滞していた。さっそく箪笥の中の蒐集品や、整然とは言えないが、さりげなく置かれているモノを見せていただくと、やはりどれも笹山さんらしく思えてくる。ザクッとしたアフガンキリム(8)の敷物もトロっとした李朝の小皿も、ラフな松田正平(9)のタッチも、笹山さんの息遣いとどこか似通って、工房の中の冷たい空気もほんのりと暖かくなるようだ。波長の合う同時代の作家達の作品群、使い込んだ家具や楽器、製作のための道具。それらのどれもが冬眠の居場所を見つけた小動物のようにそれぞれの位置を占めている。「冬はこんなもんやないで」けっこう雪も降るらしい。厳しい自然の中で、人々は今もこの山里にその血を受け継いで土と共に坦々と生きている。人を語る際に故郷の特色と強引に結びつけるという手法はできるだけ避けたいと思うのだが、このような土地の持つ静かな、しかも大きなパワーに触れると、笹山さんのことを紹介するのにこの伊賀の風土のことに触れないわけにはいかなくなってしまった。しかし、これまでバラバラだったジグソーパズルのピースが落ち着き場所を与えられて、少しずつ全体像が見えてくるように、この一日で笹山さんの輪郭が妙にくっきりと浮かび上がってくるようなそんな痛快さを味わったのも確かだ。
考えてみると、信楽焼も伊賀焼も創業時から700年以上、ほとんどスタイルを変えてない。需要に応じた変化がもう少しあってもいいように思えるのだが、妙に頑固だ。でもその頑固さが頼もしい。自らの守備範囲をがっちりと固め、堅実な仕事に徹することが、結局は真理にたどり着く深い穴を掘ることになるのであると笹山さんを始めとした伊賀の人々は皆信じているのだろうか。うん、多分そうに違いない。
この地で土と共に生きた無数の陶人たちに対し敬意を込めて一句
螻蛄(けら)のごと土を食み食み土と化す
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伊藤利彦 「箱の中の空」
「もう亡くなってしまったけど、とっても静かで品格のある人やったな。この作品を見るとおだやかな笑顔を思いだすよ」
『伊賀の土を食んで〜笹山芳人(陶芸家)』
服部清人
薪窯
工房全景
アフリカクバ族麻布
「パリへ行った時買うたんやけど、
このパッチワークはまさしくクレーやな」
扇田克也 「家」
茶室の明りとりに置かれたガラス作品。
淡い光を透過して氷砂糖のような肌合い
を見せる。
(7) 加藤唐九郎
昭和60年(1985)歿。陶芸家、陶磁研究家。桃山時代の陶芸研究と再現に努めた。永仁の壷事件により、一時失脚するも、その後の実績に高い評価が集まり、昭和を代表する陶芸家となる。
(9)松田正平
平成16年(2004)歿。1937年東京美術学校卒。1984年に日本芸術大賞を受賞。“周防灘”シリーズなどに見られる独特な画風に評価が高い。
引き出しを開けるとそば猪口がたくさん
白磁徳利
「この徳利の白って表情があるで」
(3) 藤堂高次
延宝4年(1676)歿。伊勢国津藩の第二代藩主。初代藩主、藤堂高虎の長男。
李朝民画 『芭蕉図』
「画面の真ん中にどかんと大きな木を
描く感覚が子供ぽくっていいよね」
(5) 本阿弥光悦
寛永14年(1637)歿。刀剣の鑑定、研磨を家業とする本阿弥家に生まれる。光悦流書風の祖。徳川家康から京都鷹ヶ峯の地を拝領し、芸術村を開く。俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者である。