1941年(昭和16年)は日本軍がマレー半島へ上陸し、真珠湾を攻撃したことで太平洋戦争が開戦した年である。その後1945年の終戦に至るまでの経緯はすでに戦後60数年を経た今もあちこちで検証されている通りだが、日本がこの戦争で大きな変化を余儀なくされたことは間違いのないところ。その後は東京オリンピックや大阪万博に象徴されるように日本人が運動能力や知性で欧米人に引けを取っていないということを示しながら、少しずつ自信を回復していく行程だった。または日本人がアイデンティティーを復活させていく、それが戦後の昭和という時代だった。という言い方も出来るだろう。今回の主人公である小島さんは1941年生まれ。まさしくその戦中、戦後を生きてきた人だ。
「庭石は親父の道楽でね。だんだんとふえていってこんなになってしまったわけですよ」お訪ねしたお宅の庭は立派に整えられている。そのことをお聞きするとそんな答えが返ってきた。お父様は地元の町会議長まで務められた有力者。加えて書画の心得がある、ちょっとした文人であった。ところが外づらは良くても、内づらは別で、小島さんはそのお父様への反発からか、家を出てしばらく放浪したこともあったと言う。しかし血は争えないもので、小島さんも若い頃から作家を志し、有志と同人誌『未来』を発行し、その執筆活動に加わり、野間宏(1)や福永武彦(2)らに影響を受けたりした。「若気の至りと言うけれど、何時かは作家になることを夢見て、世の中を斜めに見ていたね」
その後、結婚し、名古屋市に職を得てからは次第にペンを持つことから遠ざかった。「つまりは才能がなかったということですよ」と謙遜されるが、青年期の同人誌の誌名のごとく漠然とした“未来”より確かな守るべき家族が出来たことで、具体的な生き方に手応えを見出された結果であっただろう。仕事がふえるにつれ、責任も増していったが、それでも文学や芸術への想いは燻っていた。「職場で関わっていた詩誌『とけいだい』の表紙絵を依頼したことが縁で、この絵を描いた井上忠明(3)と終生の付き合いが始まりました」と、一点の水彩画(「百日草」)を見せてくださった。これが小島さんのコレクター人生のきっかけとなった。昭和50年頃、岐阜県郡上市石徹白に友人と建築した山小屋を関市の山岳会に売却した分配金、24万円で最初の一点となるこの水彩画を購入した。「その後、井上さんが亡くなり、その奥さんも亡くなるまで油彩・水彩画を中心に作品を買い続け、さらに素描、スケッチ帳、資料類などを預かり、その画業を顕彰するために色々とやってきました」奥さんと協力して各務原市で回顧展を開催し、その年に岐阜県立美術館に14点、さらに名古屋市美術館に16点の作品が収蔵されることに尽力された。「井上夫妻とは家族ぐるみの付き合いでした。彼は貧しい地方の画家でしたが、詩人でもあった奥さんとともに、私の人生に計り知れないものを与えてくれました。二人とも早くに亡くなったのは本当に残念ですが、南九州などにもスケッチ旅行に出かけ、一緒に絵を描いていた時代が、私には青春の全てといっても過言ではありません」
こうして、絵画への関心は次第に広がりを見せていく。これもきっかけは文学からだったが、挿絵画家風間完(4)の描く女性像に憧れ、『週刊現代』に連載されていた五木寛之の『青春の門 筑豊編』(5)挿絵原画を手に入れる。「純粋でありながら知性と情念を秘めているような日本女性の美しさ、品格の高い瑞々しい女性像が魅力だと思うのですが・・・」と、壁に掛かった作品を見つめながら話されて、照れ笑いを浮かべられた。
説明が遅くなったが、実は小島さんは蒐集したモノを鑑賞するために、『風花庵』という立派な私設ギャラリーまで造ってしまった。先述の井上忠明遺作展や彼に関する講演会を開催するなど同好の方々を招いては楽しんでおられる。そこへお邪魔してお話を伺ったのだが、「いずれはここも孫の子供部屋になるのかも知れませんね」と、嬉しいような哀しいような口調で話される。幸い息子さんも小島さんの血を継ぎ美術好きなので、小島さんの想いがこの先モノや空間に息づいて受け継がれていくことは間違いない。
話をもとへ戻そう。小島さんは四十歳を過ぎても、変わらず文学への関心を持ち続けていた。その頃よく読んだ作家に立原正秋(6)がいる。「美への憧れを背景に、自然風景の中へ男女の交情を落とし込んだ硬質な文体に魅せられ」その作品に強く惹かれるようになる。特に『春の鐘』などの小説の発想を得たと作者が語る李朝白磁の大壷には強い印象を受けた。そんなことがきっかけで陶磁器の蒐集にも手を染める。『風花庵』には陶器類も品よく展示されているが、それは氷山の一角で、蒐集品の数は(奥様には内緒だが)かなりのものになっているらしい。小島さんにとっては絵画も陶磁器も美の具現物としてはまったく同列で、受け止め方に違いはない。絵画は好きだが、陶磁器はちょっとねとか、またはその逆だったりとか、ご自分の好きな分野が限られていて、他へは興味を示さないという方も結構おられるのだが、根の部分に人間への興味、ひいては自分というこの不可思議な存在への探究心を持っているようなタイプの人にはその区別がないように思われる。優れた仕事は目に見えない力を持っていて、分野ごとの価値観など知らない者にも訴えかけてくるものだと思う。「ところがね、伊藤郁太郎(7)氏が言っているんですよ。“李朝陶磁の鑑賞と観る側の人格との関係について”モノの側から美が放たれても、その美は向こうから囁きかけてくれるわけではない。美を見極めるためには、こちらも自らの“眼”を純粋に保つための努力、切磋琢磨が必要とされるし、モノの側がそれをわれわれに求めていると思うのですよ」美を受け止めるためのトレーニング、一種求道的な姿勢が必要ということか。
戦後の教育は西洋文化への憧憬や羨望のもと、個性の尊重が謳われ、自由で溌溂とした健全な人格を育成することにベクトルを定めた。確かにそのことは現代の日本を繁栄に導いた大きな基礎となったが、行き過ぎた自由の主張、歪んだ個性の尊重が招いた軋みのようなものが現代の日本に蔓延していることも多くの人が感じていることであろう。物事を理解したり、習得したり、表現したりする際にもしかるべき段階を踏まず、自由だから個性尊重だから、と言い張って、“うまヘタ”な創作物が一世を風靡したりする風潮があちこちに生まれた。冷静になってみればそれはわかることなのだが、つまりは物事に対する浅い理解がもたらす、途中下車のようなものだ。本当の目的地まではまだ遠いのに、窓の外を見ていたら、とっても魅力的な風景が目に止まり、つい列車を降りてしまったのが始まりで、結局その街に住み着いてしまうことになった放浪者のようで、もっと先へ進めばもっと素晴らしい土地や人やモノに出会えたかも知れないのに、それをあきらめてしまうことに気がついていない。小島さんが言いたいのはこちらの理解力や知識や感性が向上すれば見えてくるものもまた確実に違ってくるということであろう。
「蒐集には少々の無理はつきものだが、借金はしないをモットーにしてきたから、あまり大したものもないのですよ」とおっしゃるが、先述の作品の他にも親交のあった大森運夫(8)作品や北野恒富(9)、小嶋悠司(10)、中沢弘光(11)宮崎進(12)大津英敏(13)などのタブローや有元利夫(14)藤田嗣治(15)の銅版画などが蒐った。「人物像が多くなったのは、やはり文学を志した頃の人間(とりわけ女性)を描きたいという表現欲の代償なのかも知れない」
陶器を中心にした骨董類も李朝物、宋時代などの中国陶磁、江戸期の犬山焼(16)、果ては現代陶芸作家物と多種多彩である。
「これでよかったのだろうか」時に慙愧の念に襲われ、もう蒐集はやめようとしたことも何度となくあったとのこと。しかし結局はやめられなかったという思いに時に悩まされつつ、それでも「夜中に独りコレクションを眺める時、こういう時間がなかったら、なんと味気ない人生だったことかとやっぱり思うわけです」
戦後の日本経済が発展していく中で、その速度に振り切られないように我武者羅に生きてきた世代の人たちは今、人生の一区切りつける時期を迎えつつある。自分が何をしてきたか、何を残せたのか、ふっと立ち止まって振り返ってみたくなる衝動にもかられるのではないか。家族や子孫、家や土地、地位や名誉といったそんな具体的な成果も大切であろうが、底知れない深い淵に沈みこむように、またどこまでも天高く舞い上がる風花のごとくに、自分という人格をどこまでも追い続けることが、人間としての最大の尊厳となりえるのではないか。
「と、まあ何やかやと屁理屈いってみても、自分ではやれやれって感じですかねぇ」どこまでも謙遜しながら、『風花庵』の主は数々の展示品をもう一度確かめるように見回した。
了
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息子さんの蒐集品であるガラス器が収まる
井上忠明「百日草」を掛ける小島さん
庭石の数々
庭の灯籠
ステンドガラスをはめ込んだ「風花庵」の室内