『わたしが骨董を蒐めるわけ』


 このページの「わたしが骨董を蒐めるわけ」という題名に因んでこれから紹介していく皆さんに質問すれば、「わけなんてなにもないよ」という答えが返ってくることは予想してる。もしあったとしても、それはあとで無理やりこじつけられたものであり、本人なり、その家族の者が納得するために用意されたどこか都合のよい言い訳の類だろう。
 まあ要するに、この手の人達には蒐集にあたっての明快な目的などほとんどないのである。ところが、いまさらここで強調するまでもないが、人間は目の前に山があれば登りたくなるという習性を持っている。山の向こうに何があるのか考えたら、それを見ないでは済まなくなるという妙な傾向をある種の人々はインプットされているのである。つまりこれは生物が生存するために神から与えられた食欲や性欲などと同様な本能のひとつであるといえるだろう。所有欲というのか、征服欲というのか、または探究心なのか冒険心なのか、しかし確かにこの精神的活動があったからこそ人類は進歩してきたわけだ。一見当たり前と思えることに疑問を持つことから科学は切り開かれてきたし、無駄と思えることにも興味を抱くことから思想は深められてきたのである。

 御登場いただいた方々はいわゆる「コレクター」である。様々なモノを蒐集している人達のことであるが、数や量を蒐めることを目的としておられたり、数は少ないが質的に高度で珍しいモノを追求しておられたり、または研究の対象としてであったり、美術家が自らのモノ作りの糧として身辺に置いておくためであったりと内容は多岐に亘っている。ちょっと前まではなんとなく日陰者だったのに、近年この種族に光が当てられる機会が多くなったのはテレビや雑誌のお陰であるようだ。インテリジェンスと信念と時に財力の象徴としてコレクションが紹介されるケースもよくある。美術館で開催される展覧会なども「○○コレクションをもとに」なんて副題がついているのを見かけることが多くなっているが、そういった例はその最たるものであろう。しかしコレクションは特権階級だけの特別な営為ではない。マラソンが人気のスポーツとして普及し、「市民ランナー」という言葉が一般化したように「市民コレクター」という言葉があってもいいほど、探っていくと意外な数のコレクターが静かに都会の片隅で淡々と蒐集を、または人生を楽しんでいるのである。
 とはいえコレクターはいたって身内の者からの風当たり強く、家庭では肩身の狭い思いを強いられているらしい。「そんなもの蒐めてなにになるのよ」と、鋭い槍のような言葉を何度も突きつけられながら、「どうせお前たちにわかんねえだろうな」と一人ぼそぼそと嘯いている姿が目に浮かぶ。でもそれでいいと思っているのだ。決して主張しようなどとは考えていないのだ。どこまでもマイペース。一人遊びの世界なのである。そこのところをこの場に無理やり引きずり出して、ちょっとだけ一端を垣間見させていただいた。まさに十人十色、百人百様、千差万別である。

 ただ繰り返すが、皆さんあくまで市井の人々である。特別な境遇にある方々ではない。自分達の身の丈に合わせた楽しみ方をしておられる。もし、共通項があるとすれば何だろう。歴史好き、ロマンチスト、好奇心旺盛、いくつかの言葉が思い浮かぶが、どうも全員を括られるようなものではない。もしかしたらこの連載を進めるうちに各人を衝き動かす原動力がなんであるかがぼんやりと見えてくるかもしれない。そんな期待を抱きながら、コレクターという珍種のコレクターになった気分で標本箱をうめていきたいと思っている。

                      服部清人

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