宋胡録(5)柿の蔕香合
「この香合は、服部さんと知り合って1、2年の頃お分けいただいた物ですね」

『はじめに茶ありき〜藤村 智(茶道家)』                          
                       服部清人 

(6)李朝物
1392年〜1910年の間、朝鮮半島を支配した李氏朝鮮王朝時代に
作られた民具を総称して言う。

沼波弄山「黒楽茶碗

  (4)井上 靖
  『本格坊遺文』
  

 すでにお席は清められ、釜には湯がたぎって、微かな松風(1)が耳に届いた。「まあ、お話は後にして、一服どうぞ」まずは“はじめに茶ありき”なのである。お点前を拝見しながら畏まっているとさりげない一連の所作で、すすすうっとお茶が点てられ差し出された。いつの間にか心地よい緊張感の中へと自然に導かれている。一啜りする。おいしい。頭のてっぺんから邪気が抜けていったような気分になる。「もう一杯いかがですか。こんどはその石臼で今挽いたばかりのお茶です」結局、生菓子と黒豆のお菓子を三つも頬張り、二杯目のお茶もしっかりいただいてすっかり満足し訪問の目的を忘れそうになってしまった。難しい理屈や作法は抜きにして“喫茶去”つまり、まあお茶でも召し上がれ、という茶道の要諦肝心はこういうことなのかと、ふと思わされる。
 
 昭和41年、藤村さんは名古屋に生まれた。幼い頃小児喘息を患い、その転地療養を目的として父祖ゆかりの愛知県渥美町に転居する。その後も後遺症のため「診療券コレクター」と言われるほど患いがちだったが、小学生の時NHKの大河ドラマ『黄金の日々』(2)を観た。自分を信じて明日を切り開いていく、市川染五郎(現在の松本幸四郎)演ずるところの納屋助左衛門もさることながら、鶴田浩二の演じた千利休(3)に興味を惹かれた。茶の道へ分け入る人には幾つかのタイプがある。良家の子女が花嫁修業や行儀見習いの場としてのお稽古を始めるケース、日本文化や禅思想への興味からその挙句にたどり着くケースなどであるが、女性の茶道人口が戦後かなりの割合を占めるようになったのは事実である。したがって一般的に現代人がお茶に対して抱くのは女性の社交の場、というイメージが強い。ところが藤村さんは『黄金の日々』で描かれた千利休から始まったものだから、ひな鳥が目を開けたときに最初に見た物を親だと思うような刷り込みの効果がうまく作用して、「お茶ってなんて奥深くって、おもしろそうな世界なんだろうと思ったんですね」と、実にニュートラルな位置からお茶の世界に向き合うことができたということになる。ここでも“はじめに茶ありき”であった。
 そこへ医者である伯父から井上靖の『本覚坊遺文』(4)を薦められた。これで完全に洗脳された。「僕はお茶がやりたい」御両親もさぞかしびっくりされただろう。普通、外から見ている限り、男子一生の仕事としてお茶の世界を思い描くことは難しい。ところが藤村さんは意思を貫き、遠縁であった名古屋の栢野宗参師の門を叩くことになるのである。お稽古には新幹線の回数券を持って通った。「朝一番に出掛けて、庭の掃除から水屋の世話、とにかく一日中下働きをして、ちょっと時間ができると稽古をつけてもらいました。大変でしたがそれでも全国の長生会の幹部クラスが稽古にやってくるので、その方たちと師匠の会話を横で聞いたりすることができて、それが勉強になりましたね」時には体育系の稽古もある。「洗面器に一杯の水を張って、それを両手で持ってこぼさないように立ったり坐ったりするんです」まるで当時流行っていたスポーツ根性漫画の一場面のようである。また、「お点前は早いか遅いかの違いはあるが、誰でもいずれ覚えられるものだ。しかし道具組みは違う」と教えられ、初めて道具に対する興味を持った。「栢野先生のところには十年ほどお世話になりました。先生が亡くなられて、それで今の桑山道明先生に師事したのです」桑山先生も道具好きでは誰にも引けをとらない。藤村さんの道具趣味はこうしてますます高まっていったのである。

 「茶席では道具4割、点前3割、知識3割。亭主は言ってみればディレクター。様々な駒を巧みに動かして、相乗効果を生み出し場面を演出する。しかし駒が盤上の外に打ち込まれるようなことがあってはいかんのです」たとえば夏炉冬扇のごとく季節にそぐわないものを組み入れたりすれば、たとえそれが趣向であったとしても不協和音が生ずる。奇を衒うのは簡単だ。ただし一線を越えたものはやはり違和感を呼ぶ。モノを選ぶ視点として、茶人がよく口にされるのが、「取り合わせ」ということである。あくまで他との関係性の中から小宇宙が成立する。そして「どう使うか」道具であるから使うことが大前提である。そうやって選び取られたモノがうまく重なり合って、そこに亭主だけでなく客も加わって共に楽しみ“一座建立”“一期一会”というその時だけの場が演出できるのである。
 「藤村君、しみたれ道具ばかり買っとってはいかん。ひとつ“種道具”を買いなさい」
桑山先生から教えられた。種道具とはどんな意味なのか。「ちょっと無理してでも中心になる道具を一つ持つとその種が育って実をつけるというのです」その教えを守って、藤村さんは利休所持の釜を求める。「ちょっとがんばりました」すると確かに利休が弟子たちを呼んで、利休周辺の品が寄ってきたんです」まるで日本昔話に出てきそうなお話だが、確かにこういった類のエピソードはコレクターの方々からはよく聞く。不思議な偶然が重なってモノがモノを呼び、次々と目の前に現れるという現象が起きて、うれしいやら、ちょっと困るやら、手元不如意の時など多いに呻吟する羽目になる。それでも目の前の獲物をただ見過ごすわけにはいかない。「道具好きが背負わなければならない宿命ですに」と自嘲気味に笑う。どうしてこんなことに身を焦がさなければならないのか、コレクターは時々我に返って己の愚かさを反省するのであるが、しかし確かにそんなことを繰り返しながら経験と知識をふやしていくと、次第に様子が見えてくる。“買ってみないとわからない”というのは道具屋のセールストークの一つで、ちょっと都合のいい言葉のように聞こえるが、客観的に見てもこれは至言であると、経験者であれば納得して下さるであろう。大事なお金を出すのだから、モノを見るのも真剣、資料を調べるのも慎重になるわけで、その結果それが知識となり蓄積されていくということである。
 「せっかくご縁があって寄ってきたものですから、大事に使ってあげないと」藤村さんは小振りな安南の茶碗を差し出された。「うちへ嫁いでもう十五年。よう働いてくれます」かつて私共で求めてくださった渡来品だ。しっかりと使われて茶渋で染まっている。「すっかり日本の顔つきになりました」かつて利休が李朝(6)や南蛮(7)の雑器を茶席に持ち込んだように、500年以上前の発掘品が海を渡り、異国の地で愛用されて少しずつ日本の風情を身に纏っている。「これを作った人もこの器がこんな運命を辿るなんて想像していなかったでしょうね。まったく別の時代のそれも異なった文化の中で受け入れられているなんて、考えてみればすごいことです」確かにこんな視点からモノを見ると、何が大事なことかということの基準が不意にグラつく。現代に生きる我々はとかく現代の感覚だけでモノの価値を判断しがちだ。作り手も受け止め手も、自分の知る範囲、手の届く範囲でしか物事を認識することしかできない。ところがそれは多くの場合、偏狭な地点から見た本質の一断面であることがほとんどなのだろう。「本当に大事なことっていったいなんなんでしょうね」

 「お稽古にこられる方々はそれぞれいろいろな目的を持っておられます。お茶に対して抱くイメージや期待は本当に人それぞれです。そのあらゆる希望に応えていけるようにしたいですね」喫茶の文化が日本に定着して800年、利休が出て400年、その長い時間の中で少しずつ変化してきた。戦後になって増大した茶道人口だが、ここにきて様子が変わってきた。新しい時代が始まっているようだ。大きな展開を目の当たりにすると、我々は戸惑ってしまうが、形を変えて再生していくのは生き延びるための秘訣である。そうは言っても頑固に守っていかなければいけないものもある。“不易流行”は芭蕉俳諧理念のひとつであるが、茶の場面でもそれはそのまま当てはまる。変わらないものと、変わっていくもの。直訳すればそうなるが、変わっていく流行性を求めていくことの果てに不易、つまり変わらないものに行き着くと解釈するのがよいようだ。ちょうど安南の茶碗が異国で新たな役割を得て姿を変えていったように、我々もしなやかに変化していくことを促されているのかも知れない。
 そんな話が少し途切れた頃合を見計らって、藤村さんは安南の茶碗を片付けながら「ゆっくりと」と言う。まだまだ今日の時間は大丈夫ですよ、という意味なのか、先を急ぐ私へのアドバイスなのか、はたまたご自身への自戒なのか。障子越に西日が差し込んで、すでにあたりは薄暗くなってきていた。
                                  
                                                                                                                

記三作「黒小棗」
紹鴎・利休の塗師
西行庵が箱書

「茶壷の飾緒をするのは難しいですが、毎年忘れぬ為に組んでおります。」

(3)千 利休
 わび茶の大成者。
 天正19年(1591)秀吉の命
 により切腹。利休は正親町天皇より
 賜った居士号。法名を宗易、抛筌斎。
 17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に
 師事して聚楽城内に屋敷を構える。
 三千石の碌を賜った

(7)南蛮物
“南蛮”は都市文明圏の者が南方の異文 化圏
 の民を称して呼ぶ蔑称であったが、
 ここでは西洋や東南アジアで作られた
 民具を総称して言う

(1)松風
 ここでは茶の湯の用語として、
 “釜の湯のたぎる 音”の意。

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(4)井上 靖『本覚坊遺文』
茶人、千利休の謎に包まれた晩年を愛弟子の本覚坊が解き明かしていくというストーリー。

茶臼

「ゆっくり時間をかけて挽いたお茶。少しでも先人の思ひに近づきたくって口切の頃には毎年社中とお茶を挽く」

高階朧仙「志野茶碗」
“一啜洗心臓”文字入り
      

(5)宋胡録
本来、タイのスコータイ県、サワンカローク周辺で作られる
陶磁器に対して言われる。桃山時代に到来。東南アジア周辺の陶磁器
全体を指して言われる場合もある。

武者小路実陰「詠草杜神楽」
山本玄峰「白雲抱幽石」
「私の大好きな僧にて不思議なご縁がありお茶の先輩よりいただいたものです」
山本玄峰「瓢絵皿
「これも玄峰老師が犬山焼きで絵付けされた物で近年我が家にやってきました」

荒木高麗手茶碗
「直しが多く、稽古に出すと社中が嫌うが、味がある」

砧青磁茶碗
「藤岡了一先生の箱書にて宋時代竜泉窯とあります」



 


(2)黄金の日々 
1978年1月8日〜12月24日の間に放送されたNHK大河ドラマ。原作は城山三郎。呂宋助左衛門と堺の町の栄枯盛衰を描いた。 

安南茶碗

大徳寺宙宝
手造茶杓
銘“若松

古瀬戸肩衡茶入

堀内兼中斎宗完「松風」

浄久作「桐文平宝珠釜」
「大西二代浄清の弟浄久作にて大西浄長の極書。胴 九寸 大きい釜で、男性でないと炭手前が大変。そんな事にて私のところへ来ました」

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