『揺らぎと軋みと翳り』
                                          服 部 清 人

 前略 篠田先生 亡くなられてもう九年になるのですね。この間、折にふれて作品集を拝見するたびに、私はそのお仕事ぶりにおそれながら益々シンパシーを感じています。それは、先生の一連の作品群が墨人会のメンバーとして森田子龍、井上有一らとともに模索した“書の在り方”というテーマにひとつの答えを示しているように思えるからです。
 今さらあらためて言うまでもないことですが、人間は言葉を操り、他との高度なコミュニケーションを図ることのできる唯一の生物です。言葉は単に記録や伝達という機能も併せ持ちますが、“書”となると実用とは離れた形而上の場面で展開されるものです。書は心の揺らぎや軋みを言葉に託し、呼吸と連動した腕から弾力のある筆を介して書き記されることによって、美を獲得することのできる手段であると思うのです。勿論、厖大な語彙数とその巧みな組み合わせが、より複雑な感情や思索の表現に繋がり、人生に対する深い洞察が伴っていなければその輝きは増しません。加えて先生の場合は刻むという行為が加わることによって、言葉の裏に隠れた感情、ひいては翳りのようなもの、それが陽炎のように揺らめき立つという効果を生んでいます。同じ思いを持つ他者はそのことに感応してしまうのでしょう。
 書家は書家である前に詩人であれ、思索家であれ、そして人間であれと先生の作品は示してくれています。先生の発信した低周波の波動は今も静かに私の心を震わせ続けているのです。
                                               草々


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