日本、今は昔ばなし 
    
            ⑥なせば為る なさねば為らぬ 何事も・・
                                                    ななえせいじ

 愛知県東海市は平成14年度から姉妹都市の山形県米沢市へ「小学生親善交流事業」として学生を派遣、交流を行っているということであります。同市のホームページによりますと、今年は16回目で、優秀な24人を選び、雪灯篭まつりへの参加をはじめ、米沢藩の名君・上杉鷹山の史跡を見学したそうであります。   
 先ごろ会った火災保険会社の営業マンは東海市の人で、身なり、言葉遣い、時間的なことすべてにきちんとした人でありました。この人のお子さんが親善交流事業のメンバーに選ばれたと聞き、そうだろうね、と思いました。米沢にも勤務したことがあったそうで、その前が東京で息が詰まる都会の雰囲気から逃れ、優しい気質の米沢の人たちと触れ合えたのが懐かしいと話してくれました。
 東海市と米沢市は細井平洲先生(1728年生)と9代藩主上杉鷹山との縁が格別深いのであります。平洲先生は京都、長崎に遊学した儒学者で、財政逼迫の米沢藩をたてなおすために鷹山の指南役として米沢に奉職いたします。童門冬二の小説「上杉鷹山」が参考になります。
 平洲先生の教えを入れ鷹山が行った藩政改革はすざさまじいものでありました。まず、藩主として年間にかかる費用1500両を209両にまで減額します。この費用の捻出に食事代を一汁一菜、衣服は木綿にするなど極限の質素倹約に勤めました。泥にまみれて田の仕事にも励みました。鷹山のなりふり構わない一生懸命さが藩士はじめ領民の心を打ちました。率先して「身を切る改革」をやってのけたのであります。
 こうして生まれた名言が「なせば為る なさねば為らぬ何ごとも ならぬは人の為さぬなりけり」でありました。
 米沢藩は、とにもかくにも莫大な借金返済の目途をつけました。関ケ原で三成サイドに就いたばっかりに散々苦労しましたが、領民は協力を惜しみませんでした。よって米沢の人たちは今日まで鷹山を尊敬し誇りにしているのであります。
 故ケネディ大統領が上杉鷹山を尊敬していた、という話があります。しかしこれは証拠がないといって疑問視したのが安部三十郎前市長さんであります。駐日大使だった大統領の娘、キャロラインさんが文書の存在を明らかにしたことで市長の疑問は氷解しました。時の安部市長さんが、名誉な公文書になぜ疑問符を付けたのか意図が分かりません。行政とはこんなものですかね。
 上杉鷹山は、宮崎高鍋藩2万7000石の小藩秋月種美の次男で9才のとき継嗣のいなかった米沢藩・上杉重定の養子に入ります。宮崎と米沢とではずいぶん距離がありますが、江戸屋敷で生まれておりますからね。 
 米沢の人は、鷹山に公をつけないと怒るそうでありますが、同じように東海市の人も平洲に先生をつけないと怒るのであります。
 愛知県に明和高校というのがあります。他ならないこの学校の前身こそが尾張藩校「明倫堂」であり、平洲先生が初代校長を務めました。藩士の子弟だけでなく、農民、町民にまで儒学や国学を教えたとあります。ピーク時の生徒数は500人、教育の機会均等を実践したのです。平洲先生は東海市荒尾の農家出身でありましたからね。
  
 日本、今は昔ばなし、1701年の赤穂事件のことであります。芝居でいう忠臣蔵のことです。赤穂の仇敵吉良上野介義央の領地は愛知県の吉良であります。吉良家と上杉家は姻戚関係になります。義央は上杉3代綱勝の妹富子を妻にしております。ところが綱勝は継嗣がないまま26歳で急死、改易のピンチに立たされます。この窮地を綱勝の妻の実家、会津藩主保科正之の計らいで生まれたばかりの義央の長男で義理の甥の三之助(後の綱憲)を未期養子とすることで幕府の許可を取り、なんとか存続が許されました。がしかし、禄高は30万石から15万石に減らされます。これが慢性的な財政逼迫の原因となります。加えて、関ケ原以来睨まれておりましたから、いざという時に要人が必要との考えから“終身雇用、リストラなし”を貫いたのも大きな負担になりました。実はもっと大きな財政圧迫の要因がありました。吉良から養子に入り4代目を継いだ綱憲は派手好みで趣味にかまけるばかり、仕事にも無能無策でありました。その上実父の吉良上野介義央は親子の関係をいいことに改易逃れの恩義をかざして米沢から年間6千石も仕送りさせたというのであります。そればかりか吉良邸新築費用8000両も肩代わりさせております。鷹山が9代として登場する頃、借金は20万両に達していたというのです。
 高家肝いりの役職を維持するためには吉良家にとってかなりの物入りであったのでしょう。何かと大名諸家に賄賂を要求していたようであります。浅野内匠頭を意地悪く虐めたのも賄賂にケチをつけたというふうに忠臣蔵は描いておりますが、あながち嘘でもなかったように思います。とにかく上野介義央は、上杉家を改易のピンチから救った恩義を最大限に利用したようであります。吉良では名君と伝えられておりますので、これを否定しませんが、善悪併せ持つのが人間であります。現在の政治家も同じようなもので、地元に帰れば”先生、先生“と持ち上げられ、いい人で通っているのでありますから、時代が過ぎても政治の構図は変わらないのであります。
 参考に鷹山が行った身を切る改革とはどんなだったか、挙げておきます。
 一汁一菜の食事と木綿服のことは触れましたが、50人の奥女中を9人に減らすなど年間の出費を14分のⅠに切り詰め、藩士・領民をねぎらい、さりとて改革に反対する者には厳しく、自ら泥にまみれて働いた、などなど率先垂範の人でありました。
 
 赤穂事件について私はこう思います。あの事件の根っこにあるのは、吉良上野介義央の陰湿な虐め体質にあったということ。しかも、人々はそれとなく噂で知っていた。してみると、当初から義央の不徳の致すところであったということ。これは言論統制が緩くなっていた元禄時代の鷹揚さにもあった。赤穂浪士の動静を探るのにそれほど難しくはなかったはず、と思うのです。幕府も高をくくっていたのか、あるいはやれるものならやって見よ、と吉良邸を本所松坂町に所替えをさせている。浪士の大高源吾が茶の湯数寄の上野介の動向を探るためわざわざ宗徧流に入門するなどという見えすいた行動も見逃していた。
 これって現代の週刊誌的取材手法からいきますと、絶対見逃しませんよね。
 実は本日、名古屋茶道具商の茶会での席主は宗徧流の人でありました。豊橋、岡崎からの参加者が多かったように思います。但しここでは赤穂事件のことは話題に上がりませんでした。

                       
                  2018年3月25日
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