日本、今は昔ばなし 
    
              ⑤災害は忘れたころにやってくる
                                                    ななえせいじ

 東日本大震災から7年が過ぎました。死者・行方不明者は1万9000人にものぼりました。天災は忘れたころにやってくる、と寺田寅彦の名言にありますが、これは真実だと思います。過去、わずか115年前の明治29年6月15日、「明治三陸地震」というのがありました。その時、38メートルもの津波が襲い2万人余の犠牲者を出しております。津波災害は、この地方ではすでに学習していたはずなのに・・。
 年月が経つほどに記憶から遠ざかっていくのは人間の性であります。ボランティアの語り部たちが一生懸命震災の恐ろしさを後世に語り継ごうとしておりますが、復興が地域によってまちまちであり、かつ国民の目にも温度差がありますので、次第に虚しさが募っているようであります。というのは、あの甚大な被害が映像として繰り返し放映されますと、観光客は映画を見ているような錯覚にとらわれるらしくその場面で拍手したのだそうであります。震災も時が過ぎると観光資源になってしまうのかと、あきれてしまうのであります。また、自治体、学校、地域の人たちが避難訓練を実施するのは、これを否定する者ではありませんが訓練の形骸化に見えてくるのであります。用心深く、転ばぬ先の杖、のつもりが、のど元過ぎれば熱さを忘れ、また羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、の例え人間は忘れる動物であり身勝手でありますから、いざという時、こうした泥縄式では、せっかくの訓練もあまり役に立たないのではありますまいか。人それぞれでありますが、実は一番の安全対策は日頃の生活態度にあると思うのです。力仕事や、嫌なことも厭わず地域に参加するこころがけこそが人間力を養い、いざという時に遠くの親戚より近くの他人(この頃は遠くのボランティア)に助けられるのであります。忘却とは忘れ去ること成り、嫌なことは一刻も早く忘れたい気持ちは理解できますが、震災があったからでなく、普段から生活事態を心掛けていくことが大切なのではないだろうか(言うが易し)。

 日本、今は昔ばなし。伊勢湾台風は、記憶としては新しい災害であります。1959(昭和34年)9月26日、台風15号は潮岬から紀伊半島を経て東海地方に上陸しました。死者・行方不明者は5000人にものぼりました。この時、私は名古屋市南区の国鉄官舎に住んでおりました。平屋建てで総数50軒くらいあったように思います。隣のブロックは県営住宅であります。しかし、この県営住宅と国鉄官舎とで明暗が分かれました。天白川が氾濫し、県営住宅から80人もの死者が出たのであります。官舎の方は敷地が1メートル高かったので死者は出ませんでした。水にのまれた死体はまるでブロンズ像のように沈んでおりました。何故かその時、私は興味本位でその場に行ったのであります。悪い子でありました。靴がたくさん流れ着いていたのも目撃しました。靴塚として今に語り継がれております。
 天白川は後順位になりなかなか修復されませんでした。満潮時になると潮が上ってきて官舎の庭が厳島状態になるのです。台風一過、太陽は高くのぼり、異様な光景の中で一週間ほど暮らしました。いまだに目に焼き付いているのは、水死体が東海道線の引き込み線路に引っかかったまま放置されていたことであります。線路伝いに多くの見舞客がそばを通ります。誰かが花を手向け、ミカンなどをお供えしていきます。
 あの晩、我が家は避難するのが遅かったのです。雨戸を叩いて悲痛な叫びで避難を促す人がいました。私は何をしていたかといいますと、まず畳を上げ、箪笥の下段を上に重ねるなど逃げる準備をしていたのです。家を出るとき隣にも声をかけ、そこの家の子を背負い、大人同士は手を繋いで避難しました。水はどんどん増しており、すでに膝上に達していました。目指すは変電所です。四方が囲ってありますから、まっすぐは行けません。水との戦いで一歩ずつ進むのですが、その時の感覚がいまもって不思議なのであります。まったく焦りはないし、歩速は遅いが確実に進んでいるという手ごたえに自信がありました。ここで死ぬ、おしまい、そういう感覚はまったくなかったのです。人間、ああいう事態に直面した時、死の恐怖は感じないものなのですね。神様が死の恐怖を遠ざけてくれたのでしょうね。だから災害は忘れやすい。
 だからといって東日本大震災を軽視するものではありません。命をなげうって最期まで避難を呼びかけた役場職員、これに類する人はたくさんいらしたでありましょう。その時きっと、ご本人は死の恐怖を感じていなかったのではなかろうか。

 人生は長いし、その人その人のドラマがあります。私も喜寿の齢まで無事生きてまいりましたが、日頃は神に感謝しております。例えば阪神淡路大震災。この時は新大阪駅近くのマンションにおりました。その時、一瞬死ぬかと思いましたが、実は自分のところは軽い方だったと知りました。
 私はこれまで幸運に恵まれ神に助けられた人生でありました。例えば大学受験でまったく勉強していないのに合格、落第のはずが進級できた、就活しなくても使ってくれるところがあった、転職を繰り返したがその都度採用してくれる会社があった、スキルもアップしていった、結婚は好きになってくれる人があればその人でいい、競い合う事柄にはあえてむきにならない。体裁はあまり気にせず、その時、その時が神の裁定と思って随います。これが私の生き方なのであります。だから上司に胡麻はすらない、意見をはっきりいう、付和雷同はしないがまともと思えばそれに随う、基本的に私は、長いものには巻かれろ、を嫌い、君子危うきに近寄らず、を心掛けます。私は神の存在を信じているのであります。世間ではこれを「運」と言っているようであります。
 このように私のモットーは明快であります。但し、ここまで原発のことには触れておりません。目に見えないものと競う勇気もありませんし、神様だって手が及ばないのであります。

                       
                 2018年3月11日
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