諷意茶譚   
              掛け軸と茶会について考えてみる―2
                                                   ななえせいじ
 
 この種の古筆は史実の証左であり話題を提供してくれ、かつ茶席の御馳走にもなると増田さん。掛け軸は茶席第一の道具とは山上宗二の言葉。近頃の大寄せ茶会でも間違いなく茶席第一の道具でありますが、密の状態でじっくり鑑賞できないのは確か。であるからして増田さんはこれからの茶会は原点に返るのだとおっしゃる。親しい者だけ四五人が集う茶席こそが本来の茶会と増田先生。話題に花咲き和み楽しい茶会を演出する。アフターコロナの茶会は本来の形に戻るのではないか、と増田先生。
 そこで私は考えます。掛け軸の茶席で果たす役割はなにかと。特に自己保有の物でない限り古文書の内容まで理解できないから、美術工芸品の一品と見てしまいがちだ。素養がない上に美的感覚もセンスもないから大寄せの客に迎合してしまうのだろう。それでも茶会に出向き床の間を前にして感嘆しているこの時の自分はなんなんでしょうね。これって滑稽じゃありません?
 ブームとか流行りとかは人々を盲目にします。かなりの金高を投じるには勇気がいる。この勇気はどこからきているのでしょうね。確かにただ所有しているだけでも愛着がわきます。亭主になれないからお披露目する機会もない。出番がない道具を持ち続けるって、滑稽じゃありません?
 掛け軸が茶席の何なのか、が分かるまでに幾十年の歳月を要します。
 戦国武将の柴山監物は丈が長すぎた一休さんの墨蹟のために床の間の天井を上げたというエピソードがあります。日本のお家事情から今日ではまず考えられませんよね。
 茶席に入る時、最初に床の間の軸に向かいます。そしてお辞儀をいたしますが軸にするのではなく軸を書いた人を敬って真のお辞儀をするのです。したがって傍らのお花には一瞥するだけでお辞儀はしません。とはいえ今日の茶会亭主の多くは、道具の所有アピールに重きを置いておりますからあまり軸の筆者の人格は考えないようであります。多忙な現代、客を大寄せして一遍に済まそうとる茶会は岐路にきているように思います。如春庵は毎日自宅で茶会を披いていたというような記録をあります。コロナ後の茶会の方向性が見えた気がいたします。つまり喫茶店のようにいつでも茶会が開かれている。来るものか拒まない代わりに茶の湯の素養がいくらかでもあり進取の気性があればいつでも茶室が借りられ茶会を披くことができるシステムこそがアフターコロナの茶の湯の世界の在り方ではなかろうか。
 茶会は廃れようとも茶の湯は廃れない、とは増田先生の視点。
                                    2021年9月1日

生々文庫目次に戻る
最初のページに戻る