日本、今は昔ばなし33
                         大納言経信の和歌
                                                    ななえせいじ

 桜咲く4月初め、木曜会の茶会席に金葉和歌集賀の部にある大納言経信の和歌が登場しました。伝為家筆の箔切というもので、まさしく金銀箔散斐紙(ひしは雁皮紙の古名)墨書の一級品であります。その歌というのは。
 君が代の程をばしらで住吉の松をひさしと思ひけるかな
 何回も代替わりするという住吉の松に君が代を懸けたのでありましょう。折しも天皇の継承がもうすぐとあって、国を挙げて寿ぐ国民の心もようにピッタリではありませんか。
 この日の席主は裏千家茶道の幹部として活躍しておられるお方。私より少し年長になられますが博識の人。門弟でもない限りとっつきにくいおかたではあります。ところが、この木曜会から2日後、八事八勝館での尾州久田流お家元継承披露茶会(この稿の後段参照)でお会いいたしました。すかさず場所も弁えず「箔切」についてお尋ねしましたところ快く教えてくださいました。茶道界には「そんなことは自分で調べよ」と出し惜しみする先生がいらっしゃるとか聞きましたが思い違いをしていたようであります。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、と昔の人はいいことを言ったものであります。
 さてその源経信(1016~1097)という人は和歌のみならず漢詩・琵琶に長じ、有職故事にも詳しかったとされます。百人一首には次の歌があります。
 夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
 稲田で肌に感じた秋風を素直に歌に詠みこんだのでありましょう
 この人の息子さんが源俊頼(1055~1129)で歌集に「散木奇歌集」(さんぼくきかしゅう)があります。金葉和歌集(優れた言葉の和歌集)を編集した人。百人一首には次の歌があります。
 うかりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
  悲恋の歌という。つれない人を呼び止めようとするのだが、お祈りしても初瀬の山おろしは聞き届けてくれるどころか突放してくる、というような意味らしい。
 
 尾州久田流お家元継承記念茶会について
 ところは名古屋八事八勝館。参加者は招待客をはじめ約300名。
 濃茶席は、家元になられたばかりの若宗匠久田宗隆氏が自らお点前なされまし
た。先客らと交代する形でその大広間に入っていきますとまず二幅対となった一行もの軸が目に入ります。二間床に2本ゆったりと掛けられているのは難しい漢詩らしく徐葆光筆とあります。中国清の時代の官僚だそうですが、意味は分かりませんが、一碧斎すなわち宗隆氏が大徳寺修行で感得した言葉なのであろう。この2本の軸の間に一碧斎宗隆氏の先輩禅師が贈った「一碧」としたためた色紙は否が応にも目に入ります。そしてこの色紙をひきたてるように「八角蓮」(はっかくれん)とかいう花が龍耳古銅に存在感を示しております。
 注 徐葆保光は中国清(日本の江戸中期)の時代の官僚、中国から当時の琉球(現在の沖縄)にわたり約8か月琉球に滞在したらしい。その時の肩書は琉球王尚敬を柵封する柵封副使であったという。
我々客人はこの孤蓬庵禅師の書「一碧」がこの日のお披露目の主眼であって同時に宗隆氏自身の心意気そのものなのであろうと解釈いたしました。
本席に入る前の道具席には、3年間修業した京都孤蓬庵ゆかりの禅師春甫宗熈筆の勘破了と青磁の手透算木の花入が堂々据えられ道具飾には茶入、灰器、炭斗などが整然とかざってあります。
注 春甫宗熈(しゅんぽそうき)は室町中期の臨済宗の僧、大徳寺40世。
  勘破了とはどういう意味なのか調べてみました。物事の是非をよく考えて明らかにせよ、という意味のようだ。

 尾州久田流の若き6代目の後継者となった宗隆氏はまだ30歳、5代目家元瑞晃
氏の孫にあたります。瑞晃氏は現在88歳のご高齢の身、長男の彰氏が7年前に急逝したとあって、かねてより家元を継承させるために宗隆氏を引き連れて茶道界に馴染ませつつ教育特訓を重ねてきました。京都大徳寺にて3年間の修行もさせました。私は運よく濃茶席の正客に座る機会を得て宗隆氏のお点前をつぶさに拝謁することが出来たのであります。私には他流であっても見事なお点前に感服いたしました。茶道界は厳しい環境にありますが、宗隆氏ならばこの現実を乗り切っていけるものと確信しております。
 
                                            2019年4月25日
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