日本、今は昔ばなし32
                         初春令月 気淑風和
                                                    ななえせいじ

 新元号は令和。大伴旅人(たびと)の邸宅(大宰府坂本八幡宮)で開かれた梅花の宴の歌から引用し万葉集の巻五・梅花の歌の宴月の序文にあるそうです。
 万葉集というのは万の言葉の集という意味で詠み人は高貴の人から庶民まで多岐にわたっております。これを編纂した中心的人物は大伴旅人の息子家持(718~785)であります。 
 
大伴家持について

 この人の人生は決して平たんではありません。左遷あり、降格あり、妬まれたり、恨まれたり、決して華々しい経歴ではなかったようであります。それでも腐らずじっと耐え和歌を研鑽し朝廷に仕えるだけの素養を身に付けたとされます。三十六歌仙の一人で百人一首には、「かささぎの渡せる橋におく霜の・・・」の歌があります。
 さて家持が越中守に任ぜられたのは29歳の時、その地に5年間在籍しますが、赴任して1年後、たった一人の弟書持(ふみもち)を亡くする悲運にあいます。悲しみの内にも任務は忠実に果たしました。その時の官位は従五位(上下あります)。人生の分かれ目の一番充実した頃ともいわれております。なにせ万葉集成立までの130年間に登録された4500余首の内2500余首が作者不明、作者が分かる2000余首の内家持の歌が473首あります。しかもこの地の5年間に詠んだ歌が223首。今もって高岡市(富山県)では万葉故地として駅前に銅像を建て「万葉集と王朝和歌との過度期に位置する歌人」として高く評価し、その歌風は「越中国在任中に生まれたのです」と結んでいます。
 現在高岡市では「家持発見響きあう詩歌と絵画展」を5月13日まで開催中で連日新年号に対する関心が高いこともあって大賑わいということであります。また高岡市万葉歴史館でも常設企画展に大勢の観光客が訪れているそうであります。
 さて家持の話に戻します。越中守から帰京したものの、時の実力者に疎まれたのか次の正五位下に昇格する770年10月までなんと21年もかかります。この間、因幡守に左遷されたのをはじめ信部大輔(中務省のことで他の省より格上・大輔は首席次官、長官は卿といった)、薩摩守、太宰少弐などを歴任します。つまり都と地方の橋渡しが役目という冷や飯食いにも関わらず橘氏(橘諸兄)と藤原氏の勢力争いに巻き込まれないよう気配りし、我慢強く任務を遂行したとされます。これも大伴家の嫡子としての自覚が強くあったものなのでしょうね。いたずらに「トライバリズム」(同族意識)の枠に入らなかったということでしょうね。多数派工作にすぐ傾く今の政治家とは一味違うようであります。
 家持は延暦4年(785)、68歳で没します。ところが埋葬も終わらないというのに藤原種継 (桓武天皇の命による長岡京遷都の責任者) 暗殺事件(同年9月23日)に加担していたとして領地没収、除名されたうえ実子の永主は隠岐に流されてしまいます。ところが疑いは晴れ無実と分かるのですが、官位が元に復するまでが死後20年も経った延暦25年(806)であります。家持の名誉は挽回されましたが、子の永主は流人生活、たまったものじゃありませんよね。これに似た事件、現在でも起こっており裁判所が無罪判決を言い渡しましたのはついこの間のこと。
 家持の万葉集に寄せた最後の歌は759年正月、因幡国守(現鳥取市)として開いた宴の時の歌だそうで、そこで万葉集はとじられているのだそうです。
その歌は次のものであります。
 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
  注 吉事はよごとと読む。
 次の歌は私の好きな家持の歌であります。
 春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ
  注 この歌から「桃李不言自成蹊」を連想しました。 桃李は物言わないけれど、人々が花見にやってきてその下は自ずと蹊が出来るという意味であります。人望のある人には人は集まるものである。成蹊大学はここから引用したものらしい。
 家持は人生の見本であります。次の歌を詠み解いてこの稿終わりといたします。     
 
 もののふの八十少女子らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花
  注 八十少女は大勢の乙女 堅香子はかたかごでかたくりのこと。水を汲みに来た可憐な乙女らをかたくりのはなに託して詠んだもの。
                                              2019年4月9日
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