日本、今は昔ばなし29
                         毛利のお宝 いざ明治村へ
                                                    ななえせいじ

 明治村茶会は毎年春に開かれております。これに参加するのも楽しみのひとつでありました。しかし今年は喜寿を過ぎた身には村内の移動がけっこうきついだろうとの思いから出席を見送りました。
 今年は、毛利家のお宝が展覧されるそうであります。茶会にはいかないとはいえ、毛利家のお宝は見てみたい。
 毛利博物館というのは、山口県防府市に昭和41年に開設されました。奇しくも今年が50周年になるということで、その記念年に毛利家は明治村で茶会を開き秘蔵の茶道具を展覧しようというのであります。茶会の道具組は参加者のみぞ知るというものでありますが、それはそれとしてこれに先んじて毛利家のお宝を見てみたいという純粋な発想からであります。
 そこで、早起きして出かけて行きました。
 のっけに余談を記しますが、毛利家の祖というのは鎌倉幕府の基礎を固めた大江広元にあり、飛躍したのは元就(もとなり)の時代になってからといいます。弘治元年(1555)、厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り大内氏や山陰の尼子氏らを滅ぼして西国最大の戦国大名となります。群雄割拠の戦国時代、元就の後を継いだ孫の輝元は織田信長と争い信長の死後は秀吉に従います。(毛利博物館発行の毛利家の歴史より)
 
 日本、今は昔ばなし。戦国武将に荒木村重という人がおります。大名物「荒木高麗」(現徳川美術館所蔵)を所持した人であります。戦国時代の下克上を地でいった人で、摂津の国有岡城(元伊丹城)の主にのぼりましたが、信長に逆らい追われ、妻子、一族郎党を皆殺しにされます。そこをしぶとく生き延び毛利家に亡命します。村重にとって本能寺の変は時がくれた時代の好事でありました。
 毛利家の御宝について。まず「唐物丸壺茶入」(大正名器鑑収録)を取り上げます。銘「時鳥」は後水尾上皇発句の短冊に因んでいるとあります。
 おしむらむ人とおもへハほととぎす
注 上皇というのは天皇退位後の尊称で、今上天皇は5月1日から皇室典範特例の決めにより上皇となられます。
 もう一つの「唐物文琳茶入」。 銘「宇都良」は撫で肩の小ぶりの茶入れで有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の和歌「鶉」からの命名とあります。鶉の和歌は未詳。
 次には朝鮮王朝時代の「大井戸茶碗 銘「常盤」。全体に素直な形で大井戸茶碗の典型とされます。高台は竹の節状になっており梅華皮(かいらぎ)は青みを帯びた釉薬で強く縮れ、松の緑を思わせるのか、「常盤なる松の翠・・」の和歌に因んだ銘ということであります。

 同博物館の特別貴重なものは重文の「日本国之印」。室町幕府が明国との勘合貿易に用いたとされ、足利義満との交易の際に明国が与えたとされる金印。
 ほかに朝鮮国より周防の国の守護大名大内氏に対し、正式な使節であることを証明するために与えられたとされる印鑑(割符)もある。印は右側半分で左側は朝鮮にあるらしい。日本と明国の交易が盛んであったことをうかがい知る貴重なもので、圧倒されました。

 毛利家はご存知のように、天下分け目の関ヶ原では西軍の総大将でありました。家康に敗れたために安芸を含めた広大な領地は周防・長門の2国(現在の山口県)に削られてしまいます。輝元は萩の指月山に居城を構えます。以後毛利家は代々この地を治めました。明治維新により国は混乱、長州藩は強固な攘夷論により幕府と対立しますが、ついに薩長同盟により倒幕に成功します。新政府発足により華族制度の最高位、公爵になります。
 毛利博物館は明治100年を記念して、昭和41年に最後の藩主元徳から4代後の元栄が開設したもの。所蔵お宝は約2万点、内雪舟の「四季山水図(山水長巻)」など国宝4件、重文9件、わが国の貴重な大名文化を担っております。
 雪舟は大内氏の援助で中国に留学、水墨画を修得した人。中でも四季山水図は、幅40センチ、長さ16メートルの大作であります。
                                            2019年3月19日
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