日本、今は昔ばなし27
                         茶会に行ってみよう
                                                    ななえせいじ

 お正月が過ぎて2月も終わろうとしております。この間、初釜やら年初を祝う茶会やらがいくつかありました。
茶会のメインテーマは床の間の掛け軸にあります。
素性法師や紀貫之の歌が軸となって登場したのです。
 まず素性法師の歌から紹介しましょう。
 あらたまの年立ちかへるあしたよりまたるるものは鶯のこゑ
正月六日に掛かったこの掛け軸の筆者はずっと後世の松花堂昭乗であります。本歌は醍醐天皇から頼まれて詠んだ屏風歌であるらしく、詞書きに「延喜の御時、月次の御屏風に」とある。因みに延喜元年は901年、参考までに菅原道真が太宰府に配流になったのもその年の1月であります。延喜は922年まで続き古今和歌集が成立したのは905年の4月であります。
 新年を迎えたばかりの6日でありますから、鶯の初音を詠みこんだこの歌はすがすがしく、今年も頑張ろうという気にさせていただきました。
素性法師はご存知、僧正遍照の息子さんであります。
 今こむと いひしばかりに長月の 有明の月を 待ち出でつるかな 
この歌は百人一首に撰集されております。
お父さんの僧正遍照は六歌仙の一人で百人一首に次の歌があります。 
 天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ 
余談でありますが、僧正遍照と小野小町との悲恋話は有名で、伝えられる深草少将とは遍照のことらしいのです。

 正月も終わる頃、藤原俊成筆の古今集より「御家切」が懸けられました。たしか紀貫之の歌だったと思います。
 あしたづのたてる川辺をふく風によせてかへらぬ浪かとぞみる
 注 あしたづは鶴が立っているさま 波が寄せたまま返らずに留まっている
貫之の歌で好きなのは
 人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
初瀬の寺(奈良県桜井)に参拝する時に宿を借りていた家の梅の枝を手おりて詠めるとある。移ろいやすい人の心は分からないが梅の香だけは昔のままである、というような意味であります。人の心も昔のままであってほしい、との願いがあります。私の大好きな歌であります。

 桜井市初瀬には観音信仰の厚い長谷寺があります。いつも賑わっております。
 日本、今は昔ばなし。私が50をこしたばかりの頃、単身赴任中の大阪から近鉄で帰省する際、ここに何度か立ち寄りました。前途洋々の小学生らがはしゃぎながら写生していたのを見かけました。この時、貫之のこの歌を思い起こし、現世の世の中は花の香とばかりにいかないよ、と移ろいやすい人の心をこの児童たちは大人になってどう感じていくのか、と現実の自分と重ね合わせていたのであります。
 「御家切」というのは冷泉家に伝わる古今集の断簡のこと。俊成は若かりし54歳頃まで顕広と名乗っていましたので「顕広切」(あきひろきれ)といった時期がありました。その次が御家切ですから晩年といえるかどうか、見事な仮名筆タッチの俊成筆の掛け軸でありました。

 2月の初旬の茶会では「龍田切」に逢いました。源家長筆によるものでここにも梅の花にちなんだ歌が登場しました。
 春の夜のやみはあやなし梅の花 色こそ見えね香やはかくる
古今集の凡河内躬恒の歌であります。
躬恒は36歌仙の一人で百人一首に有名な一首があります。
 心あてに 折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる 白菊の花

 龍田切というのには訳があって下絵の料紙を金泥、銀泥で施し紅葉、草花、流水などの下絵を模写したところがいかにも龍田川の歌枕を連想させるというのがネーミングの由来ということであります。
 私は筆者の源家長が何者かに興味がありました。後鳥羽上皇に仕えた人でいろいろな官職につき最後は但馬守でありましたが、承久の変(1221)後は官職を辞し妻の実家がある近江の国日吉で過ごしたといいます。この間でも定家や家隆と親交があり歌人として歌会を催すなどして活躍していました。後鳥羽上皇の1205年成立の新古今和歌集編纂の中心的役割を担っております。没したのは、乱から3年後の1224年であります。

 茶会は掛け軸だけではなく、釜はもとより炭道具、香合、水指、茶入、茶杓、茶碗、菓子器等々、それなりに道具持ちでないと亭主は務まりません。掛け軸が由緒あるものならば他の道具もそれなりにつり合いが必要であります。正月に懸ける亭主となれば相当の茶人ということになります。そこで、できるだけ茶会に通って茶会を愉しみましょう。
                                            2019年2月26日
生々文庫目次に戻る
最初のページに戻る