日本、今は昔ばなし 
     
②大根の話
                                                    ななえせいじ

 今年も一月は豊国の月例茶会から始まりました。席主が初釜の先生と同じ人でありましたので、その道具組がどうしたものか、これは参考になると期待しておりましたが、初釜のすぐ後のこととあってか、ほとんど同じ道具でありました。それでも私にとって大変勉強になったのであります。それというのも書院席の大きな床の間に生けられてありました牡丹のことであります。
 豊国茶会から数日して今度は淡交会という裏千家社中の新年初茶会にも見事な牡丹が登場いたしました。
 牡丹は、花屋さんならどこでも扱っている定番花材でありますから、立てば芍薬座れば牡丹云々の有名なフレーズだけが記憶にあるくらいで牡丹の属性まで理解しておりませんでしたから大変勉強になったのであります。知らなかった自分がちょっぴり恥ずかしく思いました。
 これについて、まず大根島(だいこんじま)からはじめねばなりませんね。大根島は島根県の中海に浮かぶ小さな島で、人気の観光スポットであります。実はこの島の特産が牡丹なのであります。島根県の県花になっております。ここで植栽される牡丹の苗は年間200万本、国内外に輸出されているのだそうであります。それが何故牡丹島でなくて大根島なのか、と申しますのは、実はもう一つ特産があったのです。滋養強壮剤として名高い高麗人参の産地でもあるのです。高級品であるがために盗まれたりしたため、隠して朝鮮大根といったそうであります。江戸時代の松江藩は財政状況が良くありませんでしたから、高麗人参が財政の助けになっていたほどに貴重な財源でありました。藩は盗難防止の上でこれを隠して人参島から大根島に名称変更したのだそうであります。
 大根島の二つの特産、牡丹と高麗人参。牡丹は日本人に広く好まれ茶花としても多用されておりますので圧倒的に国内需要で満たされておるようであります。方や、高麗人参は高値であることと、もともと日本人は維新以来漢方薬より化学医薬に頼る傾向がありましたからいまもって需要は少ないらしく専ら韓国などに輸出されているようであります。

 話変わって、今はむかし、明治時代の頃であります。東海道線が開通したのは明治28年(1985)でありますが、そのころ大根を特産としていた町が愛知県知多半島一帯にありました。特に大府は字名を大根(おおね)と付けていたほどであります。東海道線の開通により町は急速に発展し、産業構図も変わっていきました。大根畑がいつの間にか自動車関連の工場に生れ変わるなどの変貌は瞬く間でありました。大根という字名だけを残して大根畑は次第に奥地に移っていったのであります。今ではこの町名すら存在しません。 
 因みに私が昭和24年8月、新潟県の片田舎から事情により引っ越してきたところが大府町大根という地名のところでありましたが鉄道の駅近くでありましたので大根畑の面影はすでにありませんでした。代わりに漬物屋さんがいくつかありました。良質な大根を漬物に加工して生業とする業者が江戸末期から昭和にかけてたくさんあったそうであります。
 愛知県のたくあんがブランド品として全国に名を馳せたのは「御器所たくあん」であります。尾張藩主が江戸参勤の手土産にした時からといわれます。御器所は元々、大根の産地でありましたが、たくあん漬けが藩の御用達しを契機に全国有数なたくあん漬け産地になったことで一気にブランドとなりました。江戸末期まで御器所の沢庵はさしみのようにおいしいと評判だったようです。当時、「御器所さしみ」と呼んだとか。生産高も上がりましたが、間もなく連作がたたって不作に陥ります。せっかく高まったブランドの信用と生産高を落とすまいと苦心の結果、近くの農家から調達する必要に迫られ、そこが知多半島一帯であったということであります。そのころの知多半島の農家は御器所まで大八車で運んだそうであります。このような苦労話を私は50年前、当時85歳の隣のおばあさんから聞きました。本格的にマイカーが普及する前のことで、御器所なんて近かったよ、というおばあさんに驚いたものです。今ではたくあんが日本の家庭の食卓に上らない日はありませんよね。沢庵和尚さんに感謝!
 
注、御器所という地名は、ずっと以前、熱田神宮向けに陶器を造っていた事に由来するらしい。

                       
                    2018年1月
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