日本、今は昔ばなし11 
    
               依存症 究極は宗教的救済願望
                                                    ななえせいじ

 オウム真理教のことを冒頭に書くのは必ずしも本意ではありませんが、マインドコントロールという言葉にいたく恐怖を覚えるのであります。この世は複雑であります。いつでもだれでも、予期しないうちに誰かが仕掛けたマインドコントロールに操られる危険にさらされております。自分はしっかりしているつもりでも、この誘いにはまってしまう危険は誰にでもあるのです。
 仕掛け人は麻原彰晃のような人ばかりとは限りませんよ。何かに縋りたい、とした人間の弱い面に付け込んで仲間を増殖していくアメーバの存在はこの世に人間ある限り存在するのであります。
 例えば薬物依存症とかギャンブル依存症を身近なところで見かけませんか。その人は良くないことと理解しているのですが、肉体と精神は一致しません。そこから逃れたいとする治癒の精神は、重症になればなるほど一種の宗教的救済願望に陥ってくる部分があると思えるのです。一方で、そこへ追いやろうとする仕掛け人がいるのも確かです。仕掛け人はビジネスと割り切り、自己責任とうそぶくでありましょう。
 この仕掛人がもし公営ギャンブルのような国であったとしたなら、国民は真剣に立ち向かわなかればなりません。例えば今国会で審議されているカジノ法案、国民を陥れるような法律の存立は否定しなければなりません。ギャンブル依存、ゲーム依存、薬物依存、その他もろもろの依存症は、どれをとってもはまる人は狂信的、かつ盲目的になり、一種の新興宗教的側面を伴ってくると私には見えてくるのであります。健全な内ならまだよろしいのですが、狂信的にまでのめりこみますと、自分の世界がさも最良の世界であるかのように、他人をも巻き込んでしまいます。危険なのはギャンブルオタク、ゲームオタクの域をはみ出して救済の手が及ばない時であります。もがいても自己コントロールできないのであります。

 日本、今は昔話。約30年前の1989年11月4日、オウムによって殺害された坂本弁護士一家のなきがらが新潟県の山奥で見つかりました。私の故郷に近い名立町(現上越市)の大毛無山というところであります。町の人たちは、坂本一家を悼み命日には欠かさず供養しているそうであります。許せないのは、奥さまは富山県に、お子さまは別なところに、離れ離れに埋めたということであります。オウムの無慈悲なやり方を心から憎みました。

 人間生きている間にはいろいろな事件の脇を通り過ぎていくものであります。通り魔事件やら、無差別殺人など、場当たり的殺人事件に出くわさなかっただけでも運が良かったというのでしょうね。
 1994年12月12日、「会社員VX殺害事件」というのが大阪でおこりました。その会社員というのはしつっこく入信を勧められ、断っているうちに殺害の対象にされたのだそうです。VXとは何のことやら分からない頃で、この猛毒神経ガスは吹っ掛けられたら最期、死ぬよりほかないという恐ろしいガスであります。北朝鮮の金正男氏殺害に使われたのがVXと報道で知りました。
 注(最近の報道によればこの猛毒ガスを解毒できる薬品が開発されたそうです)
その大阪でのVX事件は、松本サリン事件(1994年6月)の半年後、地下鉄サリン事件(1995年3月)の4か月前であります。阪神淡路大震災は1995年1月17日でありますからこの震災からわずか一か月後であります。そのころ私は、殺害が実行された路上のすぐ近くのマンション(大阪市淀川区地下鉄御堂筋線沿線)に単身赴任しておりました。毎朝出勤時に職務質問を受けたのであります。一週間くらい続きました。

 オウム事件の深層にあるものは、社会に対する不満、怨みが引き起こしたものと専門家の分析にあります。社会の矛盾点はいつの時代もありますから、だからといって殺人は許されないでしょう。格差拡大の現在においても、この火種が増幅されておりますから、確かに、今どきの理解不可能な事件の深層は社会のゆがみに対する不平不満やらが遠因にあるのでしょう。

 例えば、多大な被害を出した今回の豪雨災害、これとて社会のゆがみに起因しているのではないでしょうか。考えすぎでしょうか。大雨のせい? 河川の氾濫のせい? 天災だから仕方ない? 果たしてそうでしょうか。決して飛躍ではありません。国民の生命と安全を守るといいながら、実際はそこに意識がいっていないのが政治の実情ではありませんか。森林国家でありながら森林資源を放置しておいた怠慢は誰にあるのでしょうか。森林はやせ細り山崩れの原因になっております。河川だけでなく、それに連なる海の幸まで、生態系をおかしくしております。
 この世は矛盾ばかり、最大の矛盾は政治にあるように思います。すなわち数の矛盾であります。最大多数が最大幸福との数の論理を以って多数派工作で無理に矛盾を征服していくやり方は、政治の奢りを生み、矛盾を増幅させていきます。そうこうしているうちに新たな不満集団を生むでありましょう。
 今こそ、国民の一人一人が心の内なる「さとり」を開く時であります。私は、「さとり」とは心の内に存在する「差をとることと」教わりました。人と差を付けたいと思うことは、良質な悟りでありますが、蹴落としてでもとなりますと自分に嘘をつく時であり最大の自己矛盾なのであります。77年の人生で、さとりの意味が少し分かってまいりました。オウム事件を教材に共に学ぼうじゃありませんか。

                       
                  2018年7月12日
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