『諷意茶譚 番外編 光悦筆 小野小町和歌』
                                                    ななえせいじ

 小野小町といえば美人の代名詞になっております。百人一首に「はなのいろはうつりにけりな・・・」の歌があります。この歌はあまりに有名で誰もがそらんじております。私とてすらすらといえるほどです。高校時代は大昔の小町を想像してあこがれたものでした。ところが何十年か過ぎたある日、小町の晩年は今でいうホームレスであったというような内容のラジオ放送を聞いたのです。これショックでした。美人薄命とは言いますが晩年の小町は貧乏していたのでしょうか。着るものもなく、布団もなく、蓑・藁でしのいでいたといわれます。あばらが出るほど痩せこけ、眼窩はくぼみしわだらけであったともいわれます。美貌を鼻にかけたいけ好かない女だったのでしょうか。伝説の小野小町、いい年になった今の私は古の小町を憐れみつつも大変興味をそそられるのです。
 小町にまつわる伝説は多い。深草少将との悲恋物語が特に有名でありますが、これは室町時代に世阿弥という能作者が創作した「百夜通い」の伝説からきているのだそうです。百日間、一日も休まず私のところにかよってきたならあなたの思いを聞き届けてあげましょう、というのですから、美人といえどもこれほどまでに思い上がった女に創作してしまうと悪いイメージが残ってしまうでしょうね。諦めずに通った少将は99日で倒れて死んでしまうのですから悲しくもむなしい筋立てに創作は仕上げている。満願の日を明日に控えようやく小町もその気になったところでした。いけ好かない美人はえてして後世に「薄幸」な運命をたどることになるのでしょうね。
 別の創作ものに、百日間、シャクヤクの花を一本ずつ植えにきてくれたら
あなたに会いましょう、と。シャクヤクは美人を象徴する花でありますから小町にふさわしいと思いますが、花言葉は「はじらい」「慎ましさ」「はにかみ」だそうですからちょっとそぐわない気がします。でも創作ですからね・・。この話の結末は、ちょうど百日目に嵐が吹いて橋が崩れ落ち濁流にのまれて少将は死んでしまうのです。
 ところで深草少将とはどなたのことを言ったのでしょう。百人一首でもおなじみの僧正遍照さんのことです。小野小町とともに六歌仙の一人です。桓武天皇の孫にあたる人で由緒ある貴族の出身なのです。出家するまでは俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい仁明天皇に仕えた蔵人頭でしたが天皇が急逝したために出家したのです。イケメンであったらしく、女性遍歴の多い人だとか。中でも小野小町には官職をなげうってまで京都に引っ越したといいますから今でいうストーカーですよね。大和物語には小野小町に恋する男として描かれているそうです。当時は女性を口説くには歌がうまくなければなりません。
 天津風雲のかよひじ吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ
 小町の「花の色は・・・」に対する応答歌のような歌です。これは百人一首にある歌ですが、をとめの姿のおとめとは宮中の五節の舞の踊り子(少女)のことなのだとありますが、ここでは小町のことを遍照は想像していたのかもしれませんね。
 小野小町との応答歌が残されております。
 寺に詣でた帰り日が暮れてしまったので野宿をしたが岩の上は寒くて仕方がない、その寺に遍照がいると聞いて僧衣を一枚貸してくれと頼みこんだら、
 世をそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝ん
 僧衣は一つしかない、貸さなかったら薄情といわれよう、いっそのこと二人で一緒に寝ましょうか。こんなあからさまなラブレターを私は書いたことがありませんから、昔の人のほうがずっと自由恋愛だったのだなあ、と思い知らされました。

 木曜会という名古屋の例会茶会席に本阿弥光悦筆の小町の歌が掛け軸となって登場しました。とにもかくにもまずその歌を紹介します。
 あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ
 あはれ(いとしい)という言葉こそ自分ではどうしようもなく思いきれない妨げなのだ、というような意味らしい。
 この歌は古今集雑歌下に収められております。注釈をつけるとすれば、ほだし、というところが強く意識しているように感じられます。この世は束縛するもの、枷となるもの、妨げとなるものばかりでわが身の果てはどうにもならないことよ、と解釈されています。悲傷の歌であると解説はいいます。悲傷の世に共感をえて派生歌がいくつも現れました。例えば俊成の歌に、
 もろともに思はばいかに世の中を思ひはなれぬほだしならまし
 百人一首に出てくる「世の中よ道こそなけれ思ひ入る・・という俊成の歌も世の中を悲嘆しているという点で共通しております。
 
 掛け軸の歌は小野小町、それをしたためた人が本阿弥光悦というところに大変興味を持ちました。
 というのは光悦の人気は高く、光悦と聞いただけで競って買い求めた風潮が信仰に近い状態で現に存在しているということであります。もちろん私には本物、偽物を見分ける能力はありませんが、鷹峰太虚庵というような署名があれば本物とまで言い切れないが、偽物ではないとも言い切れない、という一応の判断基準が定着しているのだそうであります。したがって専門家の間では、光悦流の書で和歌が書かれておればそれでよし、ということのようであります。
 茶席では亭主と客の間で暗黙のルールがあります。あくまで亭主が出したものは亭主の言う通りなのであります。利休道歌に、習わずに善し悪し言うはおろかなりけれ、とありますが、その通りで道具の善し悪しや鑑定まで客は踏み込んではなりません、ただ鑑賞するのみであります。

 話はとびますが、小野という姓は遣唐使の小野妹子に始まり小野篁(たかむら)、 小野道風と伝説の人が連なりますが、小町は篁の孫であり、道風のいとこといわれております。
 小野道風は平安中期の藤原佐理(すけまさ)、藤原行成と並ぶ三蹟の一人で能書家でありますが、本阿弥光悦は道風より600年後の近衛信伊、松花堂昭乗とともに寛永の三筆の一人といわれます。
 ものの本によりますと、光悦の書はこうした掛け軸の形で目にするのは珍しいのだそうです。私は貴重なものを拝見できたのであります。

                                                      2017年4月
                                                     (六敬庵主人
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