『諷意茶譚49 心 こころ』
                                                    ななえせいじ

 今年も残すところあと数日となった。この文章も50回をもって締めたいと目標を立てていたが何とか49回まできた。
 今年を一文字で表すなら、私は「心」としたい。まず心の手始めは初釜に「老鶴万里心」という裏千家家元筆の掛け軸を用いた。鶴は年老いていても万里の先まで見通している、という意味。花鳥風月を外題とした季節の取り合わせが茶会の定番であるとするなら「心」はいささか奇抜かもしれない。しかしこだわらないのが私の心である。
 さてその「老鶴万里心」は鵬雲斎家元が昭和64年の正月に書いたもの。ご存知のようにこの年、年明け早々に昭和天皇はみまかったため昭和64年は7日しかない。このため家元は特に己巳(つちのとみ)正月と書き込んでいる。
 老鶴とは家元ご自身であるかどうかは分からない。確かまだ66歳であったと思う。余談ながら、今年は「ロクヨン」とかいう映画がヒットした。あらすじは、昭和64年のこの一週間の間に誘拐殺人事件が起こり未解決のまま時効になってしまったという内容。ロクヨンが創作とはいうものの実話が下地にある。昭和62年に起こった戦後唯一の未解決誘拐殺人事件である。実際の事件は誘拐した7歳の児童を生きたまま川に投げ込み窒息死させている。極悪非道な心ない事件である。但しロクヨンの作者はこれがモデルと一切明かしていない。あとはDVDをご覧いただきたい。
 話変わって今年は夏目漱石没後100年に当たる。東大の姜尚中さんの名作「こころ」の足跡を旅した番組がこの月に放映された。
 僧堂の道を行くK君の自殺がこの心という小説の中心にあると思う。自殺の動機は先生の想い人(下宿の娘)に横恋慕したことへの罪悪感からなのかはっきりわからない。単なる失恋とは思えないが、求道者であるK君は「精神的向上心のない者はバカだ」と先生に言ったことが今度は自分に向けられる羽目になる。この自己矛盾に悩むのである。今日の社会ではまず考えられない人としての心のあり様じゃないか、と私は解釈している。精神的・・・の言葉を浴びせた先生も自殺してしまう。この結末は、明治天皇の崩御、乃木大将の殉死と重なってこの時代の心模様がより鮮明となるのである。

 世の中、今に始まったわけじゃないが、とくに近頃の世相は索漠としていて「こころ」不在である。人間にはどうにもならない性があって、運命のいたずらとばかりでは割り切れない環境にもがき苦しんでいる人々がいる。貧富の差が拡大し、あらゆる方面で閉塞感が出てきた。例えば結婚できない若者が増えているし、社会保険料も払えない。年寄りは老後の蓄えなく十分な年金もなくさりとて働くところがない。困窮生活を強いられている生活苦老人のなんと多いことか。これすべて自己責任だろうか。それにしても年間2.5万人の自殺者は多すぎる。
 格差の根源は財界も含め為政者たちのこころ不在の執政にある、とまで思っている。法と心を論じるならば、私は「心外無法」と訴えたい。法で心を縛るのではなくして心で法を縛ってほしい、ということ。この禅語は桜の季節のころ、ある茶席で目にした言葉である。
                       
                 2016年12月27日
                                                     (六敬庵主人
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