『諷意茶譚45 徳川茶会 山門状』
                                                    ななえせいじ

 10月は茶会のシーズン。さらにつづく。
 2日は東山荘で裏千家の業躰長を務めた故Y氏をしのぶ茶会があった。
 この日の午前中は遠州流家元還暦茶会に参加し、その帰り。
 10日は、八事の料亭にて裏千家愛知第3支部創立30周年記念茶会。
 本席軸は雪舟等楊筆破墨山水図、寸松庵伝来。寸松庵は茶人佐久間将監が紀貫之筆の古今集切れを伝承するために大徳寺塔頭龍光院内に建てた茶室。
 茶入は大名物唐物柳営御物、利休鶴首茶入、若州酒井家伝来。若州は若狭の国、今の福井県。
 茶碗は天王寺屋伯庵。きわめて至近距離で拝見できた。
 替茶碗は覚々斎手造黒、銘大リキ。幸運にもこの茶碗で頂いた。
 16日は徳川茶会。10月9日から始まって11月3日まで毎週土・日・祭日に行われる。愛知第3支部担当。10日にその第3支部創立記念茶会があったばかりのため客足は緩かった。
 特筆すべきは本席床の掛け軸。重要文化財藤原定家筆の山門状。義弟の藤原公経にあてた書状。公経は西園寺家の実質的祖である西園寺公経のこと。この人の姉が定家の後妻になったため定家の義弟ということになる。 
 この山門状には延暦寺と石清水八幡宮との紛争の結末が書かれている。紛争のもととなった事件は延暦寺末寺の神人が石清水側の筥崎宮留守職に打ち殺されたのが発端。延暦寺側が石清水別当の処罰と石清水寺領の所有権移転を要求して朝廷に訴えた。しかし朝廷は石清水の罪科を問わず、寺領もそのままとした。延暦寺側は要求が受け入れられなかったため神輿動座(今日の居座りデモ)に及んだ。これに対し、朝廷は、罪科なし、神輿をどかすようにと宣下(今日の最高裁判決に相当か)した。この顛末を定家は義弟に書き送ったのが山門状。定家はこのような形で後世に残るとは思っていなかったのであろうか、自身悪筆と卑下する。
 当時、延暦寺と興福寺という2大寺は相当な力を蓄え何かと難癖をつけ朝廷に強訴していたらしい。大陸にわたって培った蝋燭などの製法特許により莫大な財力を得、その権益を護るため僧兵を雇って専守防衛に奔っていた。
 当時の政情を知るうえで貴重な史料といえる。
 薄茶席では、歌銘「むさしあぶみ」という竹製の大ぶりな花入れに魅せられた。小堀遠州と江雲宗龍の合作。
 むさしあふみさすかにかけてたのむにはかかぬもつらしかくもうるさし
 この花入れの堂々たる成りを詠んだのであろうが、これには伊勢物語に本歌があって、むさしあふみさすかにかけてたのむには、の前段は同じで、後段は、とはぬもつらしとふもうるさし、とある。

 というようなわけで、暑さが十分に残る10月の入りだったが、女心と秋の空、徳川茶会の花入れではないが、とはぬもつらしとふもうるさし、の変わりやすい気候ではある。
                       
                 2016年10月29日
                                                     (六敬庵主人
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