『諷意茶譚43 平忠盛朝臣、明石にまかりて詠める』
                                                    ななえせいじ

  熱田神宮月釜は毎月15日、濃茶、薄茶と2席がふるまわれる。9月は仲秋の候とあって月に因んだ趣向が用意された。
 濃茶の蓬庵席は裏千家のKさんが担当された。茶道家の家に生まれご本人はたしか3代目と聞く。ここに至るまで教室として名をたかめ弟子も増え茶道具もそろった。その証の一端がこの日の茶会に垣間見る。
 寄り付きの軸は明堂宗宣の絵に宙宝和尚が画賛している。翫月、と外題されているが席主の説明がすんなり理解できなかった。3人の僧侶が満月を見上げて楽しんでいる図である。確かに外題通りもてあそぶ月の図である。はじめ有名な月下の門を推すか敲くかとした故事を思い出し敲月と読んだ。席主の意図もわからず自分勝手に楽しんでしまったご無礼をお許しください。
 さて本席の軸は金葉集の秋の部より平忠盛朝臣の歌。金葉集とは一番優れた言の葉(歌)集という意味で白河院の命により源俊頼が撰んだ。
 その忠盛の歌。
 月のあかりけるころ、明石にまかりて月を見てのぼりたるけるに、都の人々月はいかにとたずねければ詠める
 「有明の月もあかしのうら風に浪ばかりこそよるとみえしか」
 これには小倉山荘という京都の菓子メーカーが創刊した「小倉
 百人一首 あ・ら・かるた」に次のように解説しているのがあった。
 有明の月も明石の浦では地名のままに明るくて夜とも見えず浦を吹く風に波だけが寄せていくのがみえましたよ、と。
 有明の月は、仲秋でも陰暦二十日以降の月のことでなかなか夜が明けないので地名の明石と掛けている。鳥羽院が秀作と褒めた歌。ちなみにこの日は十五夜であった。
 忠盛は清盛の父、はじめ白河院に仕え国司として功績をあげ、わずか18歳にして従五位下に叙された。白河院の没後は鳥羽上皇の近臣となり、瀬戸内の海賊退治に尽力、日宋貿易にもかかわって巨万の富を築き平家の基礎を固めた。とにかく忠盛は武家社会にあって当時としては考えられないほどの歌の実力者であったという。
 掛けられた軸の断簡は忠盛のこの歌に続いて俊頼の歌があったと思われる。月前落葉といへる事をよめる、とまで掛け軸にはあるが歌のほうはきれて
いてわからない。そこで調べてみた。
 嵐をや葉守の神もたたるらむ月に紅葉のたむけしつれば 源俊頼朝臣

 葉守の神、とは樹木に宿っている神のことで、嵐も神に罰せられて静かにしている、さまを詠んだようだ。
 時は鎌倉時代の約100年前、源平は蜜月であった。しかし、平家はこの忠盛の莫大な財力を基礎に力を得のし上がっていくのである。しかし嫡子清盛は権力を得、平家にあらずんば人にあらずとばかり奢り高ぶる。しかし平家は、驕る平家は久しからず、とわずか20年で没落していく。
 この教訓、いつの時代も同じである。権力者であろうと、普通の人であろうと、歴史に学ぶ点は多い。
                       
                 2016年9月21日
                                                     (六敬庵主人
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