『諷意茶譚42 十六夜日記』
                                                    ななえせいじ

 月が変わって8月4日は例の上飯田の料亭での茶会。その本席床は冷泉家始祖藤原為相(定家の孫)の生母阿仏尼筆古今集第17巻より歌3首。
 会記には次の2首が記されていた。
 壬生忠岑 落ちたぎつ滝の水上年つもり老いにけらしな黒き筋なし
 凡河内躬恒 風吹けどところも去らぬ白雲は世をへて落つる水にぞありける
 阿仏尼は十六夜日記の作者である。歌日記、旅日記のようでもあるが実は播磨国細川領をめぐる訴訟記録。父為家(定家の息子)は正妻の子為氏(二条)に所領を譲るとしていたが、死の間際になって意趣変えして為相に譲ると遺言した。当時は公家法と武家法とがあって、公家法は遺言による変更は認めていないが武家法では認められていた。だが為氏は公家法を盾に譲らなかったため我が子可愛さに母の阿仏尼は息子を故郷に残して60歳過ぎの高齢の身ながら武家の本山鎌倉に赴き訴え出た。しかし、訴訟の解決をみないうちに阿仏尼は世を去る。
 系図を復習しておきましょう。俊成 定家 為家 為氏が正妻筋。定家の義兄(伯父の子)が寂蓮。為氏の異母弟(阿仏尼の子)が為相(冷泉家)。
 鎌倉での阿仏尼は塾を開いて生計を立てたほどの歌の名手。十六夜日記は1283年10月16日から書始まる。女流歌人として優れていたことと、訴訟事件の実録が生々しかったことから後世の伊勢物語を書いた人が十六夜と名付けた。また、阿仏尼は著書「夜の鶴」で歌論を展開している。したがって茶会の羽箒は鶴と早合点したが、実は鴇(とき)であった。
 ところで為家の正妻は宇都宮頼綱の娘。為家は義父頼綱に頼まれ父定家につなぎ宇都宮家の別荘小倉山荘襖に貼る色紙を書いてもらった。これが小倉山荘色紙和歌と呼ばれるもので百人一首のもとになった。(諷意茶譚③)小倉山荘は京都嵯峨野に位置し当時は藤原家を中心とした文化サロンの地であった。
 さて席主となられたご婦人は茶会でよくお目にかかっていたがこの日初めてフルネームを知った。後日、別の納涼茶会ですれ違い、挨拶を交わしたとき「もう年だから、あれが最期」というようなことをおっしゃっておられた。どうやら、掛け軸の、老いにけらしな黒き筋なし、に思いがつながるようだ。
 後で聞いた話であるが、元々は裏千家で活躍した人であったが役員同士の確執から飛び出した、と聞く。なるほど会記には裏も表も出てこない。出された道具が立派なものだから、はじめ道具屋かなと思ったほどだ。
 それにしても、まさか茶道を辞めるわけでもあるまいが、確かあの日、金工家のKさん、表千家のKさんが裏方についておられた。協力者はたくさんおられるのだから引退はもったいないと思ったことだ。しかし世の中はデフレスパイラルに歯止めがかからない。茶道界しかり、あらゆる業界の規模が小さくなっていく。それゆえに、目下最大の懸念材料はソーシャルセキュリティーなる安全装置が壊れていくことだ。
 かくいう筆者も生活が大事であるから、茶は長寿の友といえども趣味の域を出ないようにしたい。デフレ現象はまだまだ続く。

                       
                 2016年8月30日
                                                     (六敬庵主人
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