『諷意茶譚38 情報操作は昔も今も同じ』
                                                    ななえせいじ

 人・モノ・カネは大切な経営資源。近年はこれに情報が加わる。中でも情報は操作されやすい。故に対応が難しい。例えば、先のイギリスの国民投票。はじめの下馬評と違った結果となった。ペルーの大統領選挙結果もはじめと違った結果を生んだ。アメリカ大統領選とて予測がつかない。
 日本は今選挙の真最中。多党化し、まさに戦国時代。党首討論を聴いていると自陣に都合のよい情報は強調し悪ければ隠す。情報は操作されている。
 話は飛ぶが、本能寺の変で秀吉がとった行動はまさしく情報操作である。1582年6月2日に変は起こった。その時秀吉は備前に遠征していた。今のように携帯もスマホもない。毛利に急報する光秀方の密使を偶然にも捕獲し主君信長の急死を知った。折しも中川清秀からの手紙に返事を書く必要があった。そこで秀吉は信長の本能寺での死を隠して嘘の情報を手紙に書き添えた。主君信長は無事に難を逃れ膳所あたりに逗留しているからご安心あれと。これが6月5日付。
 中川清秀は摂津茨木城主。元は荒木村重の家臣である。村重は信長に逆らい一族郎党皆殺しにされている。この恐ろしさがゆえに清秀は高山右近とともに降参したもののはたして・・と秀吉は複雑な清秀の心のうちを読んだ。敵を欺くにはまず身内から、と孫子の兵法どおり清秀を欺いたのである。
(注=荒木村重は戦国時代の武将で茶人。荒木高麗なる茶碗を所持していた。中川清秀の妹は古田織部の妻。村重と清秀は二人で高槻城主の和田惟政を討った。この清秀は本能寺後、秀吉についたが賤ケ岳の戦いで戦死している)
 あとは歴史が示すとおり急いで毛利と和睦し、水攻めで落城寸前の高松城主清水宗治を城内の兵士の命を助ける約束で切腹させた。これが6月4日。後顧の憂いを取り除いたところで200キロの行程をわずか10日間で全軍を京都に取って返した。歴史に言う「備中大返し」。
 ここでも情報は操作された。信長の死のことはおくびにもださない。異変を知らない清水宗治は講和に応じ、自分の命と城兵の命とを引き換えた。よく考えてみると、もともと水攻めは黒田孝高の作戦で兵士の命を無駄にしないという意図があった。清秀が前もって間者をうまく使っていたなら本能寺の動静はキャッチできていたかもしれない。まんまと秀吉の作戦にはまったとしか思えない。
 だいたい清水宗治なる人物、戦国の世とはいえ高松城入府までのいきさつがフェアではない。備中三村氏の譜代石川氏の娘婿でありながら毛利に加担して小早川隆景の配下となって高松城主に収まっている。
 兄弟とともに切腹した時はわずか46歳。水に囲まれた船上での切腹は見事で介錯を含め後に武士の作法となったとか。
(宗治の遺児二人の内一人は関ケ原の前哨戦で戦死、もう一人は関ケ原後に豊臣方の誘いを断り毛利に仕えた。皮肉にも豊臣家は滅んだが清水家は長州藩寄組として幕末まで続いたそうだ)
 情報は、一瀉千里を走る、という。勝たんがための情報操作は必ずしも有利に働くとは限らない。わが国選挙の結果はどう動くか注目されるところだが、失業、貧困、将来不安の若者はいまこそ主張する時だ。
 差がつくばかりの政治の在り方が問われている。参考までに、仏心の「さとり」とは、差をとる、ことなそうだ。南無阿弥陀仏。
                       
                 2016年6月29日
                                                     (六敬庵主人
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