『諷意茶譚37 本能寺の変は6月だった』
                                                    ななえせいじ

 名古屋は芸どころ、といわれるが、どうして茶どころでもある。
 名古屋に家元を有する茶の湯流派はいくつかある。例えば尾州久田流、志野流、松尾流。ほかには尾州有楽流がある。
 尾州有楽流は織田家の茶道として発祥し、江戸時代の御家流の流れを汲む一派として今に伝わっている。武家茶道としての歴史は長いが家元制度をとらなかったため点前は一般に伝授されなかった。このために千家茶道のように礼儀作法の嗜みとしての免許制度に後れをとり、特に文明開化の明治以降、とくに近年までかたくなに自己愛的点前を護ったため普及しなかった。
 しかしこの茶道を細々と伝え、どっこい生きているとアピールするのが「有楽流如翠会」という組織である。存亡の危機にあった同流が2003年、中日新聞の報道をきっかけに同志が集まり、まず稽古初めから再興した。
 この如翠会が先ごろ北区の料亭で茶会を開いた。6月2日のこと。
 6月2日といえば本能寺の変が起こった日。亭主からこの日が信長の命日と説明を受けて席中の人たちは皆一様に感嘆の声を発した。旧暦、天正10年6月2日は西暦(ユリウス歴)では1582年6月21日になる。ところが近世日本は明治5年にグレゴリオ歴を採用しているため7月1日になる。ややこしいから歴史は旧暦をそのまま西暦に書き換えている。
 6月2日は梅雨時の最中。「時は今、雨がしたたる5月かな」。決行を前に光秀は心の内をこう詠んだ。雨がしたたるは天が下たるに符合する。
 さて有楽流は信長の弟の織田有楽斎を流祖とする。茶を少しでも嗜む者であれば、国宝茶室「如庵」、名物茶器「有楽井戸」は存じていよう。
 茶会当日に配られた「わたしたちの有楽流」によれば、織田家の茶法として信長の孫である織田貞置へ継承されたもので点前は茶書「貞要集」がおおもとになっているという。
 貞置は、茶道を利休の高弟高橋玄旦から学び台子点前を伝授されている。のちに貞置流を独派し土肥二三を高弟に持つ。高家旗本として将軍家に仕え尾張徳川家の江戸屋敷茶道指南役をつとめた。貞置は信長を大変尊敬していて89歳まで生きた。命日が6月2日というのも偶然の一致か。
 この日の本席掛け軸は、伊達政宗差出の貞置宛て進物瓜に対する礼状。貞置19歳の時に政宗69歳で死んでいる。この人の命日もまた6月(27日)である。
 亭主は中日新聞のH氏、ご自身の誕生日が6月22日だそうだ。同氏にしてみれば、茶会を主催するとしたら「ときはいま」であったといえる。光秀が想起されて小癪と思われるなら流行に乗じて「いつするの、いまでしょ!」に置き換えてもいい。
 中日新聞は、衰退しつつあった有楽流茶道の行く末を憂い「尾州有楽流、存亡の時」と題して報じたのは13年前。この記事を書いた人こそがきっと亭主のH氏であったろうと思われる。
                       
                 2016年6月16日
                                                     (六敬庵主人
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