『日本国憲法と江戸幕府の武家諸法度』
                                                    ななえせいじ

 いま日本国憲法が国民の関心事になっている。戦後は70年、今の憲法が発布されてから69年。これに比して徳川政権は260年と長い。これを支えてきた憲法に相当する幕法があったはずだ。とくと考えてみたい。
 江戸に幕府を開いた家康はその時いかなる地位に上ったか。武士の頭領である征夷大将軍に就いた。ちなみに秀吉は関白であった。
 武家政治の始まりは鎌倉幕府からでかの頼朝も征夷大将軍に就いている。(ちなみに征夷大将軍の始まりは坂上田村麻呂であったそうだ)
 徳川幕府は国を治めるにあたってどんな幕法をつくったのだろうか。天下は統一されたとはいえ国という概念を一方的に国民に押し付けるのには無理があったように思う。幕藩体制下では、天領とか藩領、寺院、神社といった領域に別れていたから、藩令に代表されるようにそれぞれの領域から発せられる令がその領域の幕法、すなわち領域の憲法といえるのだろう。徳川260年を支えた基本中の基本は2代将軍秀忠が1615年に発した13か条からなる「武家諸法度」にあったと思う。伏見城に諸国の大名を集めてこの法度により忠誠を誓わせた。元和令という法度。
 その内容が面白い。好色・博打の戒、罪人の隠匿禁止、他国者の召し抱え禁止、倹約の勧め、無許可婚姻の禁止、そのほか身分による制限、国主に人材登用を奨励していることなどである。中でも注目は、文武弓道の道に専ら嗜むこと、文武忠孝を励まし、礼儀正しく、ともある。
 これは家康の命により金地院が起草した。その後、三代家光、四代家綱、5代綱吉、六代家宣、八代吉宗と将軍が変わるごとに改正され、特に六代家宣の正徳令の時から和文体となり時の学者新井白石が関わった。内容も細部にわたり、例えばキリスト教の禁止もこのときに強化された。
 茶の湯はどうであったか。家康はあまり茶の湯に熱心でなかったと思われるが自分の天下になってすでに確立されている利休の茶の湯を無視するわけにいかない。信長、秀吉と茶の湯が隆盛を極めてきた後だけに文武奨励の手前、武士の嗜みに加えざるをえなかった。そこで登場するのが武家茶道である。
 御家流、小堀遠州流、石州流伊佐派、鎮信流の4派。
 御家流は石州流の流れを汲む。現家元は安藤というが、その安藤家4代目の信友が細川三斎の門人一尾伊織から奥伝を許されてより御家流として存続してきた。石州流伊佐派は片桐且元の弟の長男貞昌(片桐石州)が4代将軍家綱の茶道指南役を務め、その道を受け継いだ伊佐幸琢の流れを継いで明治維新まで将軍家に仕えた。多くの大名家が石州流を修めているのはこうした事情による。茶の湯はまさしく武家の裏芸(あるいは表か)とされる所以でもある。 
 さて今日、つまり戦争を知らない人が増えてくると戦争という重大事件は過去へといざなっていく。この際、69年とか70年という空間を大事にしたい。まぎれもなくそれだけの年月が平和であったということなのだから。
 憲法と法律の違いは何か? 池上さんの解説は、法律は国民を規律し憲法は国を規律すると。憲法を改正したいと我が国宰相ははっきりおっしゃった。それは国の規律のタガを緩めるということに通ずる。平和が少しずつ揺らぎつつある方向にあるのは確かだ。果たして国民の平和と安全は護られるのだろか。国民は国のリーダーを監視し本音を見落としてはならない。
 武家諸法度は幾度も改正が加えられたが、江戸幕府はこれを盤石なものにするために、この法度が全国的に通用させなければ意味がない。そこで3代将軍家光の寛永令は1635年、最初の13か条に加えて「幕法を国々で通用させること」と加えた。
 今の日本国憲法は国民になじんでいるし国々に通用していると思う。だからして何も加えないでほしい。茶を濁す程度のところでやめておいてほしい。とにかく70年という平和な年月、何も足さない、何も引かないで運用してきた憲法なのだから。
                       
                 2016年5月13日
                                                     (六敬庵主人
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