『諷意茶譚33 卞和(べんか)と爛柯(らんか)』
                                                    ななえせいじ

 恒例の木曜会。毎回会場はある料亭の茶席と決まっている。今月の席主はこの料亭の人。今年古希を迎えたとかで席の拵えがこれに因む。
 表題の卞和と爛柯がこの日のメインである茶杓と茶碗の銘である。恥ずかしながら(べんか)(らんか)については初めて耳にし、故事があったとも知らない。この故事を亭主の兄が詳しく説明してくれた。茶会の楽しさは知らないことを知るところにある。点前は修業すれば上達するが、意味する物言わぬ茶道具を理解しなければ茶は楽しくない。また亭主は席中の人たちを惹き込むだけの技量が入要である。これをもって一期一会というようだが、理解度が5割を下回るようだと客にとって茶席はしんどいものになる。だからしてお茶は飲むばかりなりでないところに楽しさ辛さがある。
 「卞和」は春秋時代の卞和(べんか)という男の話。楚の時代である。卞和が玉の原石を見つけ王様に献上したところ鑑定士はただの石ころだという。王様をたばかったかどで刑に処され左足を切断される。王様は死にその弟に変わったので卞和は再び献上したところ鑑定は覆らないばかりか今度も刑に処され残った右足を切断される。その王様も死にその子が継承した。宝石なのに石ころといわれ嘆き悲しんでいる卞和を見て王様は試しに原石を磨かせてみたら見事な宝石になった。この故事が「完璧」の語源とか。
 「爛柯」は晋の王質という木こりの話。爛(らん)は腐るという意味。柯(か)は柄のこと。従って爛柯(らんか)は斧の柄が腐るということ。
 木こりの王質は森で碁を打っている子供たちにあった。斧を傍に置いてそれを見ていたら面白くなって時のたつのを忘れてしまった。ふと気が付くと斧の柄が腐っていた。森から家へ帰ったら知っている人は一人もいなかった。この故事、「壺中日月長」につうじる。
古希を迎えた亭主は、振り返ればあっという間であった、といいたかったのだろう。
 卞和の話は、禅語からもいくつか教唆を受ける。玉磨かざれば光なしというが、ここでいう玉は人間の内なる心であろう。「白珪尚可磨」「時々勤払拭」「心々不異」などだ。これすべからく人間の心のありようを示しているのだと解釈する。かくいう筆者もあまり偉そうなことは言えないが、この年になってようやく禅語を符丁で覚えるのではなくして意味を考えるようになった。
 寄り付きに白河楽翁の歌(書)が掛かっていた。下絵が谷文晁。
 「何事も心のままにならざるやのりをこえずのまなびざるゝや」
 白翁が古希を迎えた頃の歌である。
 思うに今の世の中、70歳過ぎの年寄りが一番厄介である。好況の時代を経験してきた気負いがある。傍若無人(これも中国の故事にある)に振る舞いすぎる。知恵ある年寄りは、のりをこえずのまなびざるゝや、を生き、かくありたい、と願う。

                       
                 2016年4月22日
                                                     (六敬庵主人
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