『諷意茶譚27 皇女和宮 中山道を行く』
                                                    ななえせいじ

 皇女和宮が14代徳川将軍家茂に降下する際、東海道を行く筈が中山道に進路変更した。何故だろうか、と推測するだけでも面白い。
 尾州久田流下村哉明翁は尾張藩の茶道方として東海道鳴海宿において和宮に台子点前で茶を献じたと伝えられる。
 哉明翁こと西行庵は京都両替商の流れを汲む久田流茶道を正しく継ぎ、その普及に努め、また絵画、書を能くした。はじめ茶の湯は松尾宗古に学んだが早逝に遭い、後久田栄甫に師事し奥義を極めたとある。尾張藩の茶道方としてその名は知られた存在であった。
 和宮一行が桂御所を出立したのは1861年10月20日。幕末の尾張は不穏の動き盛んであった。尊王派と倒幕派にわかれ14代尾張徳川慶勝も揺れていた。そんな時に東海道を行くのは極めて危険であっただろう。何せ3万人の大行列、長さは50キロに及ぶ。住民の外出・商売が禁じられたばかりか2階から見てはいけない、寺は鐘を鳴らすな、犬・猫は遠くに繋げと大変な警備をしいた。責任者は、当然リスク分散を考えるだろう。
 そこで誰やらの小説を思い出した。中山道を通った和宮は実は偽者であった。
ほんものと思わせる目くらましのためには行列を華美にして壮大、威厳を示す必要があった。
 ではほんものの和宮はどうしたか。交通至便な東海道を行ったのではなかろうか。ほんものを偽者に仕立てて進んだのであろうと想像する。そう推理することで久田流の哉明翁が鳴海で茶を献じたという話と符合するのである。
 久田流家中の人に訊いた。ほんとうに茶を献じたの?と。
「いやそれはないでしょう、尾張藩から頼まれたことは間違いない」
 和宮がどこをどう行こうとも哉明翁が鳴海で和宮に茶を献じたのはある意味真実であった、と思いたい。
 一碗からピースフルネス。どこやらの聞いた標語である。幕末の動乱期、これで公武合体なり、江戸城が無血開城されたのだから結果よければすべてよし。
 哉明翁百回忌追善茶会の後、今度は毎年恒例の徳川茶会に行った。大勢の人が押し寄せるこの茶会、80回記念茶会とあって、黄金の台子皆具が持ち出された。この皆具道具、幕末期に御用金として供出されるはずだったが、葵の紋が見えすぎちゃって売れなかった。公武合体、大政奉還と歴史が動く中でこの純金台子皆具は今も尾張徳川美術館において大事に扱われているのである。
                       
                 2015年11月30日
                                                     (六敬庵主人
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