『諷意茶譚26 国宝喜左衛門井戸(2)』
                                                    ななえせいじ

 喜左衛門井戸を最初に所持していたといわれる竹田喜左衛門なる人物、乞食同然に落ちぶれ体中に腫れ物を病み路上に野たれ死にするも最期までこの茶碗だけは手放さなかった、という。異説はあろうが話としては面白い。
 喜左衛門が死んだのは1615年。大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した年である。徳川家康が政権を盤石にしようと厳しい施政を布いていた筈だから野たれ死にした人間の体から物を剥ぎ取るような奴は現れなかった。恐らく貴重なものは届けるようにと厳しくふれてあったのだろう。ともあれ家康は大阪の陣のお手柄として孫の能登守忠義に与えているのである。(余談であるが同じようなことがある。夏の陣で真田幸村を打ち取ったお手柄として初花茶入を孫の越前北の庄松平忠直に与えている。諷意茶譚③を参照)
 家康が死んだのは1616年。問題はこの茶碗を所持した者が次々と腫れ物にたたられたということ。それでも茶碗の価値は下がらなかった。むしろ価値は上がり能登守からおよそ150年後も松平不昧公が大枚をはたいて購入したほどである。1700年代後半のこと。ところが不昧も腫れ物を患い正室に手放すよう促されてもなお執着した。ためにこれが原因で1818年死んでしまう。世嗣の月潭が相続したが父不昧が高値で購入していたことと腫れ物の噂が邪魔になって処分できないでいた。そのうちに月贉までが腫疾したため母の勧めをいれ損得なしで縁のある孤蓬庵に寄贈したという。孤蓬庵によって厄払いが出来たということであろう。その後は何らのたたりもないそうだ。
 茶会の日、孤蓬庵の若い住職はこの茶碗を小脇に抱えて客の前に現れた。手慣れたものである。出し帛紗の上でうつ伏せにして梅花皮(かいらぎ)を見せてくれた。おそらくこの茶碗は年に何度も各地へ旅をしているのだろう。茶碗自身が扱われ慣れしていると感じた。
 孤蓬庵は1612年9月13日に小堀遠州によって建立された大徳寺系の寺である。
                       
                 2015年11月16日
                                                     (六敬庵主人
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