『諷意茶譚25 国宝喜左衛門井戸(1)』
                                                    ななえせいじ

 重文の合甫を見た後、ほどなく今度は国宝喜左衛門井戸を拝見する機会を得た。同じ料亭での茶会である。その茶会というのは、尾州久田流下村哉明翁百回忌追善茶会。濃茶席を担当されたのは国宝の持ち主京都孤蓬庵の小堀亮敬住職。追善茶会主の尾州久田流現家元の下村瑞晃さんは薄茶席を担当された。これには訳があって、下村さんのご長男で一昨年46歳で急死した宗碧さんの追善供養も兼ねているからだ。
 この企画は故宗碧さんの修業仲間であった小堀住職との生前からの約束であったとか。
 実は、この茶碗との対面は数年前の名古屋美術倶楽部でも経験している。その時は参加したお客がかわるがわる手に持たせてもらったが、今回は大勢のことでそんなわけにいかなかった。それでも運よく一番前で息がかかる距離で拝見させてもらった。
 さて感想は?と訊かれても上手く表現できないから、いろいろな美術書にくどいほど書かれているのでそちらの方を参考にしてもらいたい。
 だけれども、朝鮮の当時の生活雑器に過ぎなかった茶碗が数百年の時を経て国宝にまで出世してしまった。戦国の下剋上の時代を掻い潜ってスター性ある人間が愛でたものはたとえ陶器であっても破格な値打ちを生む。
 エピソードが面白い。最初に所持していたのは大阪商人の竹田喜左衛門という男。大変な浪費家であったらしく、それがために稼業の商売を潰しついには乞食同然の生活破綻者になった。女郎屋の下足番になって糊口を凌いでいたがこの茶碗だけは首から下げて離さなかったという。
 喜左衛門と言う男、果たしてこの茶碗の価値が分かっていたのだろうか。すでに価値を認めるお店衆がバブル相場を煽ったため手放す気になれなかったというのが真相じゃなかろうか。この茶碗を所持することで喜左衛門は「ぼろは着てても心は錦」を地で言ったのだろう。以上は推測である。
 後に家康がこれを孫の本多能登守に大阪の陣の手柄として与えている。竹田喜左衛門からどのような経緯で家康の手にわたったかは分からないが、想像するには、天下人となった家康は何かの理由を付けて没収したのだろう。これも推測。
 明日の命さえ分からない戦国時代に信長という異端児が現れ、茶の湯が盛んになり、茶道具も法外な値段で取引された。例えば蒲生氏郷がお城よりも茶入れを所望したという話はあまりに有名。
 混乱の時代を制した家康は、茶の湯のことに余り興味を示さなかったとはいえ茶道具の価値感には敏感であっただろう。
 関ヶ原以後、家康施政下でお家断絶、お取りつぶしなどで莫大なお宝が徳川家のものになった。喜左衛門の唯一の財産などしれたものだろう。
 世の中が落ち着いた150年後、すでに価値が確立されていたこの茶碗を不昧公が550両で買い上げている。目利き第一の不昧公の買い上げによってここに価値は極まった。
 その後もこの茶碗は幾多の変遷を経て大徳寺弧蓬庵に寄贈され安住した。
                                      (つづく)
                       
                 2015年10月23日
                                                     (六敬庵主人
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