『諷意茶譚22 斎荘と蜂須賀と梅逸』
                                                      七重誠治

 うだるような暑い日、月光に導かれてベランダに出た。7月31日のこと。今日は満月かな?と思い旧暦を調べてみたら6月16日、まさしく満月であった。そう言えば山本梅逸の月画賛の軸があったな、と思い出した。月の絵が朧に描かれ藤原高光の「かくばかり経がたく見ゆる世の中にうらやましくもすめるつきかな」の歌で画賛している。この歌、今の世の中を象徴しているかのようで好きである。梅逸をさらに調べて見ると天明から安政にかけて活躍した絵師で、死ぬ2年前の安政元年、尾張徳川の御用絵師になった。その時、藩主斎荘の命で朝鮮から取り寄せた豹を写生している。
 梅逸は名古屋の生まれ。尾張徳川に仕えるまでは諸国を亘り歩き京都が長かったようだ。名古屋市博物館にはその梅逸の重文級の四季花鳥図屏風と畳泉密竹図がある。森村美術館にも四君子屏風があると聞く。
 斎荘は江戸将軍家11代家斎の11男である。はじめ御三家田安家斎匡に養子として迎えられ長じて田安家を相続、元服を機に斎荘と名乗り、知止斉と号した。その後、今度は尾張徳川家に迎えられ12代を相続した。尾張徳川家の11代斎温(なりはる)も養子で将軍家斎の19男である。ということは、斎荘は弟斎温の養子になったということ。これは徳川将軍家がどうあっても御三家を護るとした強い政治的意図の表れで、紋どころ、すなわち権威の仕業とみる。因みに13男斎衆(なりひろ)は鳥取藩に入っている。このほうは家督を相続することなく天然痘を患い14歳で死去している。
 斎荘(知止斉)が裏千家11代玄々斎に茶の湯の指南をうけたのは尾張家を相続してからで、わずか3年で奥伝まで極めた。現在の制度でも3年で茶名まで得られる。もっとも同じ3年でも修練の中身が違うであろう。ただいま裏千家の許状はだら安なのだ。それは修練システムでなくして集金システムであるからだろう。
 11代将軍家斎は55人の子沢山であった。この子らをどう処遇するかが将軍家の政治の要になっていた。水野、田沼の時代で幕府政治が最も堕落していたころ。世継ぎを産むのが将軍の仕事とはいえ家斎の側室が40人と言うから驚く。養子に出すにも親藩大名家だけでは足らず外様大名家にまで及んだ。徳島藩蜂須賀家斎昌の養子に入った斎裕は家斎の22男である。
 この蜂須賀家に斎荘が梅逸の屏風絵を贈っている。すなわち11男が22男に贈ったということ。絵の内容までは定かでないがひょっとすると徳島県が所有しているかもしれない。
 蜂須賀家と言うのは、御存じまだ日吉丸と言っていた頃の秀吉を矢作川の橋のたもとで召し抱えた豪族である。この縁があるから関ヶ原の時は西方についたが兵を出さなかった。これが家康の恩義となり徳川幕府発足の際、徳島藩主となった。明治維新まで続いた。
 紀元は2675年の今日まで日本の歴史を形成してきたものの骨太は紛れもなく育ちより氏であった。時に秀吉のような氏素姓の分からない人間が登場することはあってもそれは例外中の例外。
 しかし今日、民主主義が揺らいでいる。育ちより氏を地で行く2世議員の多いこと。時の為政者は氏より育ちであってほしい。
                       
                 2015年8月18日
                                                     (六敬庵主人
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