『⑳諷意茶譚  国宝姫路城』
                                                      七重誠治
 平成の大修理を終えたばかりの姫路城を観光してきた。
 今回の大修理は1934年(昭和9年)以来のこと。国宝に指定されており、世界遺産になったこともあり外国人観光客が目立った。
 ここに至るまでが時代の変遷に翻弄され苦難の連続であった。特に明治維新期。新政府は古臭いお城などは無用の長物とばかりその価値を認めず競売にかけたほどだ。しかし捨てる神あれば拾う神がある。1877年(明治10年)、日本の城を保存しようという動きがおこった。中村とか云う大佐が名古屋城と姫路城の修復保存を太政官に上申するよう山縣有朋に働きかけたのだ。これが姫路城修復の第一歩。支給されたお金は予算の半分にも満たなかったが取りあえず応急措置が出来た。しかし城はその後も荒廃した。世論の力は大きい。1908年(明治41年)、市民に保存期成同盟が結成され、ついに翌1910年国費9万円余が支給されたのである。これが明治の大修理。その2年後の1912年(大正元年)に城は一般公開され立派な稼ぎ手となった。更に20年後の1931年(昭和6年)、国宝(但し旧国宝で今でいう重文級)に指定された。
 姫路城と言えば黒田官兵衛が秀吉に城を譲った話は有名。1580年のこと。翌81年、秀吉はその城を三重天守にした。その後は、秀吉の弟秀長、北政所の兄木下家定が入城しているが、関ヶ原戦後は家康の娘督姫の婿池田輝政が入っている。現在の五重七階の美しい連立式天守は輝政によって1609年(慶長14年)に完成した。
 茶道界では馴染みの深い江戸琳派の創始者とされる画家酒井抱一(1761~1828)は姫路城主酒井忠以(ただざね・宗雅)の弟である。
 祖父の酒井忠恭(ただずみ)が上野国前橋から入封したのは1749年(寛延2年)5月。その前年、姫路藩は大旱魃が原因で財政は逼迫していた。それでも時の藩主松平明矩は年貢徴収の手を緩めなかった。酒井家との領地替の噂が流れていたので領民は借金踏み倒しを恐れて一揆をおこした。酒井家が移封してきたのはこの混乱のさなかである。ところが酒井家の入封後も台風が2度も襲い死者不明者3000人以上を出して姫路藩の財政は最悪の状態に陥った。苦しい経営の内ようやく財政改革に着手したのは1808年。時の藩主酒井忠道が家老河合道臣(寸翁)に命じ負債73万両と言う巨大な借財の返済への道筋を立てるのである。上に立つ人の人材登用の器量を垣間見る。藩収入の柱となる姫路木綿はこうして奨励された。
 人材は教育によって作られる。忠恭は前橋から転封の折、1692年に開校していた藩校好古堂を姫路城内に移設したのである。
 この好古堂に因むのが好古園。平成4年姫路城西御屋敷跡庭園に市制100年の記念事業として整備された。その園内に茶室双樹庵が設えられている。誰でも気軽に入れる。一席500円。因みに酒井抱一の兄忠以は茶道・絵画・能をよくし不昧公とも親交があった。茶道は石州流を極めたと伝えられる
 庭園はよく整備されおり賑わっていた。大河ドラマや時代劇のロケによく利用されるという。大岡越前とか暴れん坊将軍、水戸黄門などだ。なるほど築地塀などはその時代を彷彿とさせる趣がある。
 さて現代、企業のありようがハードかソフトかとすみ分けされるがこれほど多岐多様に成熟した社会ではもはやハートに訴えるもの以外に価値は見出されない。姫路城の優雅さがそれを教えている。
                       
                 2015年6月5日
                                                     (六敬庵主人
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