『⑲諷意茶譚  解釈次第で変えられる憲法』
                                                      七重誠治

 護憲の機運が盛り上がりつつある。その論点はまちまちであるが、護るも憲法、変えるも憲法。どちらも護憲の名のもとにある。いずれが正論か?
 友人の法学者は護る側と思っていたら、集団的自衛権容認が閣議決定された時、法は解釈次第とする曖昧論者と知った。この学者は地方の国立大学で教鞭をとり定年まで勤め上げた。学生時代は特に憲法については熱く議論を交わしたものだが、しかし友人は行政法学者の立場からか解釈が大事という。
 いささか腑に落ちない。彼はカラオケを趣味としている。わたしは茶の湯を趣味とする。法学者の憲法に対する精神と茶の湯の精神は違うだろう。茶の湯は400年もの間解釈を大きく変えないできた。これが伝統と言うもの。
 彼の奥さんは茶の湯を嗜む。時に話の矛先を変えて見る。しかし当人の彼は、茶会席の緊張感は嫌いと言っていた。そのわけは彼本来の解釈論が茶会と言う日本の伝統文化が堅苦しいものとしか理解できないからと見受ける。
 確かに茶の湯は永い伝統に守られてきた。これを支えたのは点前手順はじめ頑ななまでに決められた規矩作法からだろう。規矩作法守りつくして破るとも離るるとても本をわするな、と利休道歌は言う。本とは茶の精神であろう。
 憲法の本とていかなる解釈を以ても変えてはならない、と思う。特に9条の不戦の誓いは日本国憲法の基本精神であると思うのである。
 今憲法はたかが70年弱で岐路に立たされている。茶道は400年後の今も続いている。茶の湯には、茶席では政治経済の類はしないという不文律がある。加えて茶席では身分の隔たりなく皆平等である。
 彼は「それって奇麗事と違いますか?」と言う。「歴史的に見ても茶の湯は政治に都合よく利用されてきた」と。確かに織田、豊臣、徳川時代へと茶の湯は盛んになっていく過程で政治の具として利用されてきた。政治と茶の湯は切っても切り離せない関係になっていった。その先鞭を付けた人は信長であった。
 現在でも政治家は大きな茶会に必ず顔を出す。また茶道会の組織の頂点に戴く人は政財界の人である。そしてこれら政治家、財界人との交流を茶道会はむしろ好んでいる。面白いことに、茶の大会に招かれたこれらの人たちは「茶のことはからっきし分かりません」と挨拶するのである。謙遜しているつもりであろうが茶の湯の精神部分は置き去りである。
 ここに我が国憲法に対する真剣味のなさを感じるのである。
 大河ドラマを見ていると茶の湯の場面が良く出てくる。例えば、忠臣蔵。赤穂浪士は討ち入り決行日を吉良家の茶会日としている。情報を掴むために浪士の大高源五が町人に身を隠してわざわざ茶の湯の修業に入っている。流派は宗流。この流派は今でこそ鎌倉に本部を置くが、一世宗は吉田藩の茶頭であった。当時の吉田藩主小笠原氏が武蔵の国へ転封になったのを機に江戸郊外本所に独立して一派を創設した。三河地方に現在も盛んなのはこうした歴史背景がある。
にわか門人の大高源五にとって茶会日取りの情報入手はたやすくない。その情報提供者は幕府内部にいた。荷田春満(かだのあずままろ)と言う国学者である。しかし、幕府は討ち入り後の赤穂浪士の始末に苦心する。まず当時、本懐を遂げた赤穂浪士に拍手喝采を送る民衆がかなりいた。一種の世論である。この世論は無視できない。幕府は迷った。義を重んじるが、かといって暴挙も許しがたい。罪を憎んで義を憎まずの苦心である。
民意がどこにあるのか、今の政治にも当てはまる。他国の難儀にわが国が自衛隊を派遣するのは義か否か。政府は国民投票を以て判断の落とし所を探ろうとしている。憲法よ、どこへ行く。歴史は繰り返すのだろうか。怖い、怖い。
そこで利休道歌から一句。きな臭さを良くかぎ分けてほしい。
「目にも見よ耳にも振れよ香を嗅ぎてことを問ひつつよく合点せよ」
                       
                 2015年5月12日
                                                     (六敬庵主人
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