『⑮諷意茶譚  三成と家康(2)』
                                                      七重誠治

 茶の湯を教養と考えるか政治の道具と考えるかでまったく違ってくる。かつて家康は秀吉と小牧長久手の戦いを和睦するにあたって石川数正を派遣するが、茶の湯に目がない秀吉の心を見透かしたかのように初花茶入れを手土産に持たせる。その時、家康は出し惜しみをするようなそぶりを微塵も見せていない。すでに茶人の垂涎の的であった初花を「こんなものがのう・・」とむしろ不思議がっている。(関ヶ原戦後、敗軍の将宇喜田秀家が家康に詫びを入れる際、手土産に家康に差し出している。これにより秀家は切腹を免れたが八丈島に流された)。家康は茶の湯の道具としてはなく価値感からこれを受けとったのだろう。
 毎年、徳川美術館では大規模な茶会が開かれている。時をあわせて美術館では所蔵の茶道具の数々が展示される。何といっても尾張徳川家には茶ところ名古屋とあって逸品がそろっている。名古屋の他の名家も自前で維持できないと分かれば美術品の一散を防ぐためにも徳川美術館へ寄贈してしまった方が世の為と考える。こうして徳川には多くの美術品が集まってくる。中でも岡谷家が目立つ。
 つまり、茶の湯にあまり興味がなくても天下をとってしまえば家康には貢ぎ物として美術品が集まってくるシステムが機能してくるというわけだ。家康に必要なのは美術品への慈しみではなくて価値感である。こうして御三家尾張徳川家には家康亡き後の形見分けで(駿府御分物御道具帳)苦もなく手に入った物が今も絶大な価値観で保存されているのである。例えば、泪の茶杓。利休から織部への形見の茶杓。織部家は謀反のかどで家康から切腹、取りつぶされた。
 徳川政治が落ち着き始めたのは3代将軍家光からで、富と権力が集中すれば、美術工芸品に目が向きこれを奨励し、競わせることで技が磨かれ、付加価値を生む。これが励みの目標となり発展する。しかし政治は又、負の責めも負う。地震、火事、水害、火山の爆発、疫病、飢饉などなど。それでも徳川時代は300年近く続いた。家康が築いたシステムが機能したからだろう。 三成の話しにかえろう。三成は万代屋宗安と親しかった関係から名物の誉れ高い万代屋肩衝(茶入)を贈られていた。家康もこの価値観を認めていた。
 関ヶ原合戦の数日前、宗安が陣中を見舞った時、戦後の始末を考え三成はこれを宗安に返している。
 このエピソード、三成の人となりを感じる。宗安は利休の娘婿である。堺の町人であるから鼻から戦力の頼みにならない。三成のこうした行為は茶道具に対する慈しみからであろう。果たして武運なく三成は敗れ三条河原で処刑されるが、宗安はこの肩衝を懐に堺から身を隠し遠く博多に潜むのである。宗安を見つけたのが博多の国主になっていた黒田長政である。長政はすでに家康から命を受けていたので難なくこれを手に入れ家康に献上した。これが柳営御物となったか定かでない。
 柳営御物とは徳川将軍家に秘蔵されている宝物のこと。戦利品もあれば、諸大名からの献上品もある。当然室町時代のものも少なくない。虚堂の墨蹟とか一休の詩歌、茶入れでは唐物勢高肩衝等々数知れない。
                 
                  「万代屋肩衝の写」

                       
                 2015年1月16日
                                                     (六敬庵主人
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