『⑭諷意茶譚  三成と家康(1)』
                                                      七重誠治

 大河ドラマもいよいよ最終回、関ヶ原合戦のシーンになった。三成と家康、はたしてどちらの言い分に歩があったか歴史上の史実を紐解いても素人目にも白黒つけがたい。あまのじゃくはこうした時三成に興味を抱く。
 と言うのは家康は完全なる武将であり政治家である。いかなる困難に向かっても最善を尽くす、いわば現実家である。歌や書画、茶の湯と言った花鳥風月的なことに余り興味を示さない。この戦国時代に浮かれている場合じゃないと冷静に分析、あくまで天下統一の為には歌舞音曲に現をぬかすようなことはしなかった。これが関ヶ原で情勢を冷静に分析、柵に囚われることもなかった。そして勝利、1603年、武士の大将の象徴、征夷大将軍になって国を治めた。平和な徳川時代の基礎をきづいた功労は偉大である。
 片や三成は若くして権力の中枢近くにあって、それが家康とは真反対の祀り事大好き人間の秀吉近くとなれば政治はもとより文化芸術、特に茶の湯の心得は必須科目であっただろう。
 さて我々は三成を論じる場合、関ヶ原の敗者であるが故の誹膀中傷の類を考慮する必要がある。利休を切腹に追い込んだのは三成の謀略だとか、真実はいかに? 歴史は後世に作られたのも沢山あったと思う。とにかく敗者は賊軍であるから反論の機会がない。例えば今日においても、いささか比較が奇抜であるが、敗戦国日本は戦後何十年たっても戦勝国の誹謀の対象である。勝てば官軍、という便利な言葉がある。数百年続く徳川時代の基礎を築いた徳川家康は優れた武将でありシステムプランナーである。しかし、秘密保護法と言うのが先ごろ施行されたが都合の悪いことは秘密に付せられる危険性がある。徳川時代ならなおさら都合よく歴史がゆがめられてきたであろうことは想像できる。
 さてこの頃、格差の時代を肌で感じる。そのせいか、とかく悪者扱いされやすい三成と言う人間にスポットを当てて見たくなった。
 まず少なくとも、誰(家康)と比較してではなく三成には人間味があったと思う。それは茶の湯の心得が人間形成の基礎にあったであろうことだ。以前、この諷意茶譚で三成の三献茶(秀吉に捧げたお茶)について書いたことがあるが、これは後世の作り話であったとしても、三成にこうしたもてなしの素養があらねば出てこない話しだと思うのである。
 天正15年正月4日、三成は大坂城近くの自宅屋敷に置いて博多の豪商神谷宗湛、津田宗及らに自らの点前で茶をふるまっている。三成が秀吉をさておいて茶会を開くはずがない。前日、秀吉が大坂城で大茶会を開いている。宗湛はそのお礼を兼ねて三成邸を訪問したのである。
 天正18年12月2日にも三成は聚楽第で茶会を開いている。秀吉が小田原を討伐、京都に凱旋した年である。その時の客が細川幽斎、万代屋宗安、津田宗及の3人。同年8日にも津田宗凡(宗及の息子)らを招いて狂言袴の茶碗でもてなしている。
 三成の茶会はこれに終わらない。文禄2年(1593年)5月6日の昼、肥前の名護屋城で、翌3年には伏見城でも催した。その頃伏見城は普請中であったから三成の屋敷うちで行われたらしい。もっとも客は神谷宗湛一人であったから茶会というほどではなかったかもしれない。関ヶ原の6年前である。
 家康と三成の根本的な違いがこれで分かってきたような気がする。柔よく剛を制する、と言うが三成的柔は家康的剛を制するには余りに若きにすぎたということではなかろうか。因みに40歳で処刑された三成は家康と18歳の年の差があった。(つづく)
                       
                 2014年12月28日
                                                     (六敬庵主人
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