『⑬諷意茶譚  大徳寺一世、徳禅寺「徹翁」和尚』
                                                      七重誠治

 名古屋茶道具商の茶会。亭主は京都徳禅寺住職橘宗義氏である。
 まず広間の濃茶席に入って驚かされたのは、大燈国師(宗峰妙超)筆の「徹翁」(てつおう又はてっとう)と書かれた横幅な掛け軸。重要文化財である。徹翁と言うのは大徳寺一世、宗峰妙超のこと。徳禅寺の文章によれば徹翁和尚は大燈国師に随侍すること20年、深く禅の奥旨を体し、国師寂后は30有年にわたり大徳寺第一世住持として法燈を伝持し大徳寺の興隆に尽力したとある。
 その掛け軸の前に瀬戸天目茶碗が淡然と荘ってある。何でも元々は50個あったそうで、長い歴史の内に破損したりして今は30個でしかないそうだ。この天目茶碗もまた重要文化財である。徳禅寺では毎日これを徹翁和尚のお供えに使用しているとのこと。残念ながら写真は叶わなかったが、正客となられた宗流不審庵の重役が「久しぶりにお目に掛かったわい」と感嘆の声を上げておられた。この軸のすばらしさが想像できよう。
 茶席の一部始終についてはとにかく、茶杓には触れておこう。銘霊山(りょうざん)。徳禅寺の地が後伏見帝第四皇子天台座主梶井宮尊胤法親王より舟奥山の東麓、梶井御所の地を寄進されたのに因むと説明にある。
 薄茶席についてもすこし触れておこう。軸は「諸悪莫作衆善奉行」の一行。これは徳禅寺に縁があった沢庵和尚の心魂を龍庵と言う人が筆にしたものと記憶する。
 沢庵は29歳(1607年)で大徳寺の住持に出世するが性に合わなくて3日で退出してしまう。徳禅寺に住まっていたのがその頃。諸国行脚の後、48歳の時沢庵は生まれ故郷の出石の宗鏡寺に投淵軒という庵を結び隠棲する。ここで詩作や絵画に耽りたくあん漬も考案した。優雅な心境に過ごすうち、幕府と大徳寺との間で僧侶の資格の許認可を巡って事件が起こった。これが紫衣事件である。投淵軒にあった沢庵は怒って幕府に掛け合う。だが幕府は幕閣の協議でも寺側の専権を許さず沢庵等を罪に問い辺境に流した。沢庵は山形に流される。ところが将軍秀忠が死去、運よく恩赦で許される。秀忠の後を継いだ三代将軍家光に愛されたのも時がくれた運。4万坪の土地とともに東海寺(品川区)に迎えられる。このことを晩年、権力者に媚びた自分を恥じ自らをあざ笑ったという。
 さて、諸悪莫作云々の禅語の意味するところは? 悪いことはするな、良いことはせよ。これほど分かりきったことはないが、かといってこれほど行うに難いことはない。白楽天と道林和尚の問答を思い出した。道林和尚は高僧ながら名刹を求めず木の枝に板を渡してその上でいつも坐禅を組んで修業していた。知事として赴任してきた白楽天はこの変わり者の噂を聞いてわざわざ訪ね来て禅問答を挑んだ。仏法とは何ぞや。道林和尚の応えが諸悪莫作云々の偈(げ)である。余りに平易な返答に白楽天は「そんなことなら3歳の幼児も知っているわ」と、すると道林和尚は「3歳の幼児も知っているとしても80歳の老翁も行い難し」と一喝した。白楽天も返す言葉がなく道林和尚を深く帰依したという。
 白楽天の偉いところはここ。間違いに気がついた時、人は自分を戒められるかどうか。
 実をいうとこれまでいろいろな茶席に顔を出したが、恥の数は数え切れない。厚かましいのかどれだけ恥をかいても二度と行くまいとは思わない。多少は茶の知識もついたつもりだし、気力もある。夢多き老人なのである。反対に年のせいか記憶違いが多くなった。恥をかくことは生涯続くことだろう。これでいいのだ。沢庵和尚は「夢」をもって辞世の偈(げ)とした。
 なお写真は濃茶席脇床の花入である。信楽焼で貞光造。
                       
                 2014年11月12日
                                                     (六敬庵主人
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