『K諷意茶譚  茶席で見た秀頼の歌色紙』
                                                      七重誠治

 九月の六日会茶会に秀頼の歌色紙(掛け軸)が登場した。秀頼と言えば大坂夏の陣で母茶々と共に火炎の中で自害した人。これが定説。しかし異説がある。夏の陣の3日前、城内のごみに紛れて加藤清正の配下によって安治川から城外に逃れ熊本城の天守閣に住まっていたという説。そこでの秀頼は痴呆者風にお金を持たず好きなように振舞っていたという。しかしその者のすることに一切おとがめがないので市井の人は不思議がった。熊本加藤家は2代目で改易となったためその者は島津山谷に送られた。そこで生涯を終えたらしいが、年1回、舟で江戸からその者の為に物資が運ばれたそうだ。以上は千原夕田(せきでん)と言う能書家の話として「漏聞異事」に書かれているそうだ。
 秀頼は確か21歳の生涯であった。能書家でかなりできた人らしく、この能力を徳川は怖れ大坂の陣では一切の温情を排除、豊臣家を抹殺したのだという。この知識を以て改めて色紙に見いった。歌は藤原敏行朝臣の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかせぬる」(古今和歌集)。
 秀頼くらいの人物ならば自作の歌をしたためていたであろうと想像できるが、600年もの前の古歌を色紙にしてこれが秀頼の筆と言われても、にわかに、ああそうとも、かといってまさかとも思えない。ここは席主がそうだと言えば、そうなのであって、感嘆の眼差しを以て見入るのが茶席のルールである、だから茶会は楽しい。
 秀頼は秀吉の晩年の子、茶々が産んだ子とされる。父親は、この時代世間の噂と状況から諸説飛び交う。ともかく父親が誰であろうと秀吉は自分の子であると信じ込んでいる以上、天下人の思いはいかなる雑音も近づけはしない。
 我が子可愛さのあまり、秀吉の執政がいつしかゆがめられ自己中心的となり、特に疑心暗鬼ひどく天下人の心は迷走し暴走する。こうして邪魔者は消すという排除の論理があたかも正道のごとく恐怖の豊臣政権となっていった。宇都宮鎮房事件(諷意茶譚C参照)もしかりだが、例えば秀次事件。謀反の疑いは取り巻きがつくった筋書きか、どっちにせよ秀次は排斥された。妻子含め30数人処刑され、連座した人を含めるとかなりの数にのぼった。
 こうしてみると、利休との確執はむしろ些細な方。小早川秀秋の場合は秀吉の養子になったばっかりに政治の道具にされ、関ヶ原で苦渋の選択のはてが裏切り者呼ばわり、徳川政権下で優遇されたように見えるが大谷吉継の怨念から解放されず、ついに気が狂って2年ばかりで悶絶してしまう。隠された悲劇はこのほかにも沢山あっただろう。そう言えば利休の一番弟子の山上宗二は毒舌が過ぎ、1590年、秀吉の小田原攻めの際ついに怒りを買い口と鼻を削がれて惨殺されている。師匠の利休は「死を賜った」のに対し弟子の宗二は惨殺である。
 あの時代、武士道の世界は死をありがたく頂戴した。これは「武士道とは死ぬことと見つけたり」とした日本古来の死に対する美意識があったからだろう。明治維新で文明開化したはずの日本は実のところ今も根本は変わっていない。自殺者が年間3万人、という数字、中でも若者の自殺が余りに多い。
 日常会話でも死という言葉が軽々しく登場する。死ぬ気でとか、いのちがけでとか、学校では、ダサイ死ねといじめられる。そのうち「いのち捧げます」になり、更に「みんなで死ねば怖くない」に繋がっていく。いやな渡世が来た。

                       
                 2014年10月17日
                                                     (六敬庵主人
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