『H諷意茶譚 石田三成と大谷吉継』
                                                      七重誠治

  石田三成は歴史上の知名度は高いがどんな人物だったのか。とりわけ関ヶ原の負け戦以後イメージが悪くなった。係数に強い秀才ながら百姓あがりの劣等感がそうさせるのか度量せまく自信過剰、加えて生意気であったとされる。
 徳川の時代になって確かに闘いのない平和な世が訪れた。家康的こころと三成的心を比較してみると、潰れる人間の狭量が透けて見える。
 奇しくも今日は終戦記念日である。この69年の間に国民は平和を満喫し、自由にふるまっている。憲法のおかげである。平和ボケ国民と揶揄する向きもあるが、この平和を持続させなければならない。
 本題に戻そう。石田三成についてこんな逸話がある。世に言う「三献茶」。三成がまだ年端もいかない少年のころだ。近江辺りへ鷹狩りに来た秀吉に茶を差し出した。はじめは温めの茶を大服にし、2杯目は中服で少し熱く、3杯目は小服にして熱いのを差し出した。この気のきいた心遣いに秀吉はいたく感服し家来に召し抱えたそうだ。
 茶の湯をたしなむ者から見ると奇異である。秀吉の方からきっと「温めの茶をもて」と所望したのだろう。後世の作り話であったとしても、気配り、おもてなしの精神は茶道の大切な心構えではある。
 大谷吉継は三成とは刎頚の交わりであった。吉継はまた家康にも近かった。秀吉の小田原征伐の際、家康との接見役を務めたのが吉継でこの時家康の器量を知った。三成に関ヶ原の戦いを自重するよう戒めたのはこの時の心証が下地にある。しかし三成は聞かない。仕方なく三成との義を優先させた。伏線があった。以前、秀吉の九州征伐に同道した吉継が秀吉に意見したため怒りを買い危ないところを三成の働きで許されている。もっともその時は北政所のとりなしもあった。この時の恩義を忘れていない。言って見れば今流の集団的自衛権容認と言える。
 こんな逸話もある。大坂城で開かれた天正15年(1587)の茶会。濃茶はご存知のように連客で回し飲みをする。吉継はハンセン病を患っていた。為に顔全体は白い包帯を巻いている。連座の豊臣恩顧の武将たちは敬遠していたが、三成は平然と飲みほした。吉継は三成の厚い友情を感じた。関ヶ原の3年前である。
 関ヶ原では吉継は戦場で自刃している。小早川秀秋の裏切りにより自陣の隊は崩れ加えて脇坂、朽木、小川等諸将の裏切りもあった。
 かたや三成は捕えられる。それでも最後まで生きる望みを捨てず強気を貫いた。家康も三成の剛毅を認め「平宗盛などとは器が違う」と言ったとか。最期は京都六条河原で斬首された。1600年10月1日のこと。
 三成と吉継はいわば同盟国。互いに集団的自衛権を容認している間柄。
一椀からピースフルネス。これは裏千家大宗匠が提唱している標語である。
わが国も今重大な岐路に立たされている、国民はしっかりしなくちゃ。

                       
                  2014年8月22日
                                                     (六敬庵主人
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