『G諷意茶譚 たかが茶杓されど・・・ゆがみと泪』
                                                      七重誠治

 細川忠興はもちろん関が原では徳川方についた。戦後は豊前小倉に移封1619年に病により引退、家督を忠利に譲り剃髪して「三斎宗立」と号した。若い時から茶の湯を愛し利休七哲のひとりに加えられていた。細川井戸など数々の名器が今も残っている。83歳まで生きた。細川と言えば熊本と記憶するが、肥後50万石に転封したのは忠利になってからである。ついでながら、細川家のルーツは愛知県岡崎細川領である。
 話しはすこしさかのぼる。利休は秀吉から切腹を命じられ沙汰を待つ間堺に蟄居するが、その時舟で淀川を下った。川べりで利休の舟を密かに見送った者がいる。忠興と織部である。いかにして秀吉に睨まれずにそれを成し得たか、おそらく町人に身を隠しての苦心がともなったであろう。
 この二人の手元に蟄居中に利休自ら削った茶杓が残っている。「ゆがみと泪」。泪の茶杓は織部が、黒く塗った筒の上の部分を刳り抜き位牌がわりに拝んだと言われる。その茶杓は徳川美術館に現存する。家康が大坂夏の陣で豊臣方に内通したかどで織部を切腹させ古田家の財産を召しあげていた。嫡子の重広も切腹、織部お抱えの茶の湯頭木村宗喜は処刑された。これにより古田家は滅亡した。しかし虎は死して皮を残す、と言うが織部独特の美の感性は現在においても評価は高い。
 一方、ゆがみ茶杓も細川家に繋がる永青文庫(北九州市)に現存する(写真)。忠興の手からいったん離れたが100年後位に細川家に返されていたのだ。
 たかが茶杓、と言うなかれ。材料代からしてたいして値打ちがあるようには思えないが、ゆがみにせよ泪にせよ、現在でも国宝級として扱われ美術館にそれぞれ大切に保存されているのである。
 こんな小さな竹の細工物が何故に大切に保存されてきたか。正直言って筆者は、茶杓の造作について、やれ櫂先がどうの、腰がどうの、削りがどうのと講釈できるほどの知識はない。しかしながらこの茶杓が生まれた背景が歴史の証拠品として何百年も伝わってきたことを思うとわくわくする感動を覚えるのである。この感動こそが底知れない付加価値を生み出しているのだ、と納得している。
 茶杓はもともと中国の薬匙で室町期まで象牙であった。竹茶杓の登場は村田珠光にはじまるとされ、武野紹、利休の時代にいたって真(節なし)・行(元節)・草(中節)の形をもって完成した。特に茶の湯が侘び、さびの枯れた美意識を持ち、茶室も書院から草庵風の小間へと変遷、身分を超えて普及するにつれて安上がりの竹茶杓が主流を占めるようになった。ゆがみと泪は、利休が自ら弟子に宛てて削ったもの。何も言わないが実に雄弁に語っているではないか。
 さて現代、視点を変えて、8月6日の原爆ドーム。無限の価値感で雄弁に語りかけているではないか。それとも、あなたはもうわすれたかしら。。                       
                  2014年8月4日
                                                     (六敬庵主人
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