『F諷意茶譚  細川家と珠 潔さにみる義』
                                                      七重誠治

 時は今、雨がしたたる五月かな。本能寺の変の決行(旧暦6月2日)を前に光秀はこう詠んだ。いつやるの、いまでしょ!と予備校の林先生は光秀から思いついたかどうか、この流行語で現代の人気者になった。確かに、決断のチャンスは一生を左右する一大事である。三日天下(実際は10日位)で終わったとはいえ、光秀はこの事件で歴史に名を残した。
 光秀の謀反で困惑したのは光秀の娘珠(後のガラシャ)を嫁に迎えた細川家である。それと言うのは信長の命による婚姻であったからだ。変の後すぐ光秀側から加担するよう誘いがあったことは至極当然のことながら複雑な立場となった細川家は、光秀の誘いを断った。光秀と旧知の間柄であった当主細川藤孝(幽斎玄旨)は剃髪して家督を忠興に譲った。光秀に対しせめてもの友情の義を通した。これにより忠興は秀吉から丹後一国を安堵された。
 謀反人の娘となった珠は忠興に対する呵責の念に苛まれた。しかし忠興は珠を愛していた。偽装離縁してまで丹後味土野(現京丹後市弥栄町)に珠を幽閉、自らの家臣に警護させた。忠興は珠の為に自分なりの義を通した。
 忠興と珠が復縁したのは家康の取りなしによるものであった。大阪城外堀細川屋敷(現在の玉造)に移った。珠がキリシタンに入信したのはこのころという。折りしも石田三成の動勢が怪しくなっていた。家康は三成をおびき出すため会津征伐を口実に東征する。同道した豊臣恩顧の武将たちはこの時、旗色を鮮明にした。三成は若い、家康のような老獪さがない。この若さが露呈したのは、残った武将の妻子を大阪城へ人質に取ろうとしたことである。最初に眼を付けたのが、忠興の妻珠である。ここで計算が狂う。珠は毅然と拒否したのだ。怒った三成は屋識を囲み威嚇した。珠は死を覚悟するが、キリシタンの戒律により自害もならず、家臣(小笠原秀清)に襖越しに槍で突かせたのである。この時妻子の多くは珠の言いつけどおり細川屋敷を逃れた。殉死したのは秀清だけという。今度は珠が義を通したのである。1600年7月17日。享年38歳。
 この一件で、家康に同道した武将たちは大阪に残した妻子の憂いを絶ちひとつに団結したという。
 忠義、忠誠はいつの時代にも欠かせない人間の道としての核心にある。
 いささか今の世はこの辺りが不足しているのではないか。自分さえよければ、と言った利己主義的考えが目立つ。特にこの頃の経営者は少し不況になると、人を見ずして一律にリストラしようとする。ゆえに告訴、告発が絶えない。これでは愛社精神など生まれるはずがない。やる気の心でつながった企業ならば多少の無理も通るはずだ。活気がありアイデアも出てくる。ここが優良企業とブラック企業の違うところ。現実は100年続く企業は少ないということ。
 本能寺の変と珠に学べとまで言わないが、歴史に学ぶところは多い。

                       
                  2014年8月4日
                                                     (六敬庵主人
生々文庫目次に戻る
最初のページに戻る