『E諷意茶譚 信長の穏やかな肖像画像』
                                                      七重誠治

 本能寺の変事は旧暦6月2日。この時期に合わせて花車茶会の6月の席主は有楽流の家元、その名も織田さん。ふくよかな気品あふれるご婦人で、転んで足を怪我したとかで座椅子で現れた。顔にも絆創膏を貼っている。席中の客たちはその顔に一様に驚いたが、織田さんは当意即妙に「せっかくの美人が・・」などと笑わせていた。すると正客が「光秀の仕業かと・・」と応じていた。
有楽流は信長の弟織田長益(1547〜1621)にはじまる。長益は有楽斎如庵と号した。京都正伝院を再興して茶室如庵を建立、その如庵は愛知県犬山に国宝として現存する。秀吉、家康に仕えた茶の湯の実力者で利休亡き後は第一人者に上がっていた。そして戦国期、有楽は武士と言うより文化人として武将間の折衝役を果たした。これも信長が茶の湯に目がなかったことと、秀吉も又茶の湯の数寄者であったからだろう。戦国の世は武将間の疑心暗鬼が渦巻く中にあっても茶の湯は武人たちを和ませ、時には折衝の道具に利用された。中でも有楽は武将たちの間をうまく遊泳した文化人であった。関ヶ原後、家康に大和山辺に3万石を与えられている。家康は、信長、秀吉よりも茶の湯に興味を示さなかったが茶の湯の場の力をうまく利用するために有楽を重要したのだろう。しかし、有楽は大阪夏の陣を前にして豊臣秀頼と徳川家康の挟間にあってどちらにも付きがたく悩みを内に秘めたまま京都二条に隠棲してしまう。これにより有楽は生きながらえた。
さて茶会だが、まず掛け軸がいい。信長の肖像画である。狩野永徳の作品を写したものとかで、一般に知る信長の顔より穏やかな表情に描かれていた。
次ぎに特筆すべきは茶杓。土肥二三作、銘日月。二三は有楽流の流れをくむ織田貞置の弟子である。三河吉田藩牧野成貞に仕えた武士で役職は物頭、禄高200石。「火宅ともらして火宅ふくめしは直に自在の鑵子(かんす)なりけり」と詠み自在軒とも号した。
織田貞置(1617〜1705)は貞置流の創始者。信長の子(信貞)の子、つまり信長の孫である。茶の湯は有楽の孫の三五郎長好に学んだ。徳川将軍家に仕え禄高は1000石。
瀬戸染付の水指を抱え込んでいるのは「常真棚」という棚。信長の次男信雄(のぶかつ)の法諱が棚の呼び名になっている。やや小ぶりの棚で朱色、棚の上にはがんぴ蒔絵の棗が※荘ってある。この棗と有楽流との関係は特にないみたい。
余談であるが、織田信長が明智光秀に謀反の隙を見せたのは油断であった。本能寺に入った時の伴周りはわずか70人。信長は、朝廷からの官職を断り、征夷大将軍にも就かないで自分風の天下を意識したのは増長としか思えない。人生50年、油が乗った時期でもあるが、一番危ない年齢でもある。
               ※ ≒飾る。床の間や書院、点前座に道具類をかざること。
                       
                  2014年7月24日
                                                     (六敬庵主人
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